法 話

(1)「誤りの虜」

 21世紀の幕開けの年を迎えたとはいうものの、政治も経済も社会も混沌として先が見えず、どう見ても21世紀が明るい希望に満ちた時代になるという展望は開けてこないようです。

振り返って、20世紀はどういう時代であったか、一口で言えば科学技術と医学の進歩と、交通通信技術の急速な発達により、人類にとっては利便性が増大し、モノが豊かになり、快適な生活環境のもとで大変長寿になった時代だったとい言えましょう。

1900年代の初めには、ライト兄弟が初めて動力機による飛行に成功し、T型フォードと呼ばれる乗用車の大量生産が開始されました。また、アインシュタインが相対性理論を創唱したのも、ラジオ放送が始まったのも20世紀初頭。以来100年の間に航空機や自動車、あるいはテレビ放送やコンピュータ、インターネットから宇宙遊泳に至るまで、その技術は格段の進歩を遂げました。ところが、反面負の足跡も残しました。

心理学者のフランクルは、「人間の能力がどのようなものであるか、そしてまたどのような誤りの虜になるかということを実証した時代、それが20世紀である」と言っています。この「誤りの虜(とりこ)」の象徴的な例としてアウシュビッツと廣島・長崎の原爆投下が挙げられるとか。なるほど。まさに20世紀が残した負の足跡。他にも類例は多々ありましょうが、私は脳死臓器移植もその一つの例だと思います。

4,000万円の費用をカンパして心臓移植の手術を受けるために幼い子供がアメリカへ渡ったというニュース。ところが、病院で待っている間に容態が悪化して亡くなったという続報。そこで、「待っていた」とありますが、何を待っていたのでしょう。もちろん臓器提供者(ドナー)の出現ですが、端的に言えば他人の(脳)死を待つていたのです。私はどうもそのことが納得できません。生体移植ならばまだ分からないでもありませんが。

聞くところによれば、「待つ」ことなく、人為的に臓器提供の機会を造り出す例が外国にあるとか。8歳の子供を2万円で買い取って12歳まで働かせ、12歳になると“使いもの”になるとかで、心臓が800万円、腎臓が350万円で商談成立。身の毛もよだつような事犯ですが、日本でも「合法」となった脳死臓器移植の延長線上にある話です。

脳死臓器移植は命のモノ化、私物化、選別化をもたらすものだと私は思いますが、それにも増して「誤りの虜」として今世紀“成長”するのではないかと危惧されるのがクローンの問題です。脳死臓器移植と似て非なるこのクローン技術、もしも人間に応用されたならば、これまた命の選別化、私物化の道を突っ走ることになりましょう。人間にとって、私にとって都合のよい命だけを選別し、都合の悪い命を切り捨てるという、命の平等性を見失った科学的合理主義の暴挙といっても過言ではありますまい。

先進国の人の命であろうと途上国の人の命であろうと、障害のある人の命であろうと健常者の命であろうと、あるいは金持ちの命であろうと貧しい人の命であろうと、軽重の差はあるはずはなく、一人ひとりの命はそれぞれに輝いています。それぞれにそれぞれ。

仏説阿弥陀経に「青色青光(しょうしきしょうこう) 黄色黄光(おうしきおうこう) 赤色赤光(しゃくしきしゃっこう) 白色白光(びゃくしきびゃっこう)」というお言葉があります。青色は青い光を放ち、黄色は黄色の光を放ち、赤色は赤い光を出し、白色は白い光を放つという意味でしょう。青色が黄色を取り込んだり、赤色が白色に赤い光を出せと強要したりしたら命の平等性は損なわれ、命の私物化となる。青色黄色赤色白色、それぞれがそれぞれの色を放って、尊い命を精一杯生きているのだ。と、お釈迦さまは教えてくださっています。  
                                                          合掌

                                                       【2001.2.10本田眞哉・記】

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