法 話

(101)「続・世間虚仮

世間虚仮(せけんこけ)


唯佛是真(ゆいぶつぜしん)
            聖徳太子『天寿国曼陀羅繍帳』より 左から不破参務・安原総長・小林総務部長

  
   

「続・世間虚仮(せけんこけ)
  
 

 723日木曜日、真宗大谷派の安原晃宗務総長(総理)と不破仁参務(閣僚)が、小林総務部長、東谷名古屋教務所長を帯同して来山。不破参務は、あいさつもそこそこに開口一番、「このたびの件につきまして、私もたびたび先生のところへお邪魔してお願いしてまいりましたけれども、結果としてこういうことになってしまいましたことにつきまして、安原総長が直接に本田先生にお会いして、ことの経緯をお話ししたいということでお邪魔した次第です」とおっしゃいました。

これを受けて安原宗務総長は、「このたびの件につきましてはご迷惑をおかけしましたこと、ご心労をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」と頭を下げられました。そこで私は、ご来山の趣旨は名古屋別院輪番人事問題(当ホームページ前月号所載「法話100」)の経緯顛末の説明と謝罪表明と受け止めさせていただいてよろしゅうございますか?とお尋ねしたところ、不破参務からは「謝罪ということでは…」と否定的なフレーズ。

意外な言葉に戸惑いを感じるなか、不破参務は、私に輪番就任を懇請した5月以来の経緯顛末を滔々と述べられたあと、「結果としては本田先生には誠に申し訳なかった、私自身が先生にすみませんでした、申し訳なかったと私が謝罪しなければならない」とおっしゃいました。が、私はその言葉の意味把握にとまどいを覚えました。総長をかばったようにも聞こえるし…、一方総長はお詫びしますとおっしゃっているのに…

そこで私が安原総長に、「『謝罪』でなくとも『すまなかった』というお気持ちはお有りですよね」とお尋ねしましたら、「すまないというか、ご迷惑をおかけしたということで、申し訳なかったという気持ちはあります」と。でも「謝罪」とはお認めにならない。不破参務も「『謝罪』ではない、『罪』の問題とは違う」とおっしゃって妙なこだわり様。そこで、私は「ご迷惑をかけました、申し訳なかった」というお気持ちをお二人とも表明していらっしゃいますので、「謝罪」という言葉は取り下げますと宣言しました。

 因みに、インターネットで「謝罪」の意味を検索してみますと、あの『Wikipedia』には「自らの非を認め、相手に許しを請う行為」と記されています。「謝罪」には不破参務が言われるとおり「罪」という文字が含まれてはいますが、今回のケースでは法律に照らして提訴したわけでもなく、いわゆる犯罪行為でもありません。素直に「謝罪」をお認めになっても実害はないと思われますのに…

 なぜお認めにならないのか、これは私見ですが、その背景に世間的と申しますか官僚的と申しますか、はたまた政略的と申しますか、そうした配慮があるのではなかろうかと思います。“世間虚仮”の世界では「謝罪」の裏側には「責任」問題が発生します。これまたインターネットの引用で恐縮ですが、『All about』には「ビジネスにおいては、下手に謝罪してしまうと責任を認めたことになり、不利な状況に追い込まれることになる」との解説が載っています。

 当日の状況を収録したVTRを具に検証してみましたが、不破参務の“冒頭陳述”の内容は、ことの経緯・顛末の説明に終始し、「謝罪」はもちろん「お詫び」の文言は一言もありません。何か意識的に避けた嫌いがあります。うがってみれば、“官僚”の発想か、あるいは関係者の事前打ち合わせによってか、「謝罪」の言葉は使わないようにということであったのかも…。

いずれにしても、宗務総長が「ご迷惑をおかけしましたこと、ご心労をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」とはっきりと述べながら、このことが「謝罪」ではないとおっしゃるのは、まさに詭弁以外の何ものでもないのではないでしょうか。前号でも触れましたが、聖徳太子が残された名言「世間虚仮 唯仏是真」の世間虚仮にも勝る?虚仮ではないでしょうか。

「謝罪」論議が長くなってしまいましたが、基本的なところでもう一つ重要な問題点を指摘しておかなければなりません。これまたいわゆる世間の常識では通用しない非常識。宗門内の常識は世間の非常識?親鸞聖人の金言「煩悩具足の凡夫、火宅無情の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」の「そらごとたわごと」よりもっと上をゆく「そらごとたわごと」なのかも。

その問題点とは何か、以下の引用文がそのことを端的に表しています。「4月に私学経営の経験のある本田眞哉氏に輪番就任について公式依頼し5月に内諾を得たにもかかわらず、6月に加藤祐伸氏を輪番に任命したという失礼極まりない事実」。これは今回の名古屋別院輪番人事問題について、名古屋教区第13組(愛西市)の西源寺の住職藤原正雄氏が安原宗務総長宛に提出し、名古屋・岡崎両教区内寺院に公表した『公開質問状』の一部。

確かに、不破参務が私の自坊へ来山して私に輪番就任を懇請し、私も熟慮の末内諾を表明したにもかかわらず、安原宗務総長は私に無音のまま615日、K籐氏に輪番任命の辞令を交付したことは紛れもない事実。不破参務がその経緯を報告するために来山されたのは618日。今回のVTRの中で、そのことについて不破参務は「こんな重要なことを電話でお話をするわけにもまいりませんので…」とおっしゃっています。

しかし、この最終決定の報告が重要だと認識していれば、どんな状況の中でも時間を割いて直接私に話ができたはず。要するに当方は軽く見られ、虚仮にされたわけで、筋の通らない話。公開質問状に関連して私の耳に聞こえてくる声は、「懇請して内諾を得ておきながら、どんでん返しとは何事だ」とのご意見。また同じ関連で、6年前でしたか、小笠原前輪番選任の時も、内局によるどんでん返しがあったとの証言が寄せられました。とにかく、名古屋別院の輪番人事は透明性に欠けていることは事実。伝統なのでしょうか。

さて本題へ戻って、今回の安原宗務総長と不破参務ご来山の件について総括してみますと、私の眼には保身・組織防衛のパフォーマンスといった面が色濃く写りました。まさに虚仮不実の論理の展開。ただ、安原宗務総長が身を縮めて心の底から「ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした」と頭を下げられた一駒には、真実心を垣間見る感を抱きました。

しかし次の瞬間、虚仮不実の空論によってこの思いは揺らぎ、残念ながら真実心のイメージはぶち壊しとなりました。最後に私は、「ご両職がご来山いただいた事実は受け入れますが、お話の内容については納得できません」と申し上げました。蛇足ながら、小林総務部長と東谷名古屋教務所長は無言の太夫でした。

思い起こされるのは親鸞聖人の作られた『愚禿悲嘆述懐和讃』。

  浄土真宗に帰すれども

  真実の心はありがたし

  虚仮不実のわが身にて

   清浄の心もさらになし
                                                    

                       合掌

《2009.8.3 住職・本田眞哉・記》



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