法 話

(102)「6000人の命のビザ

一切の有情(うじょう)
みなもって世々生々(せせしょうしょう)

父母兄弟なり。
           
『歎異抄』より

遠く通ずるに、
四海(しかい)みな
兄弟なり。
               
『安心決定鈔』より
             大府市S・E氏提供

6000人の命のビザ

私が主宰する任意団体「アジア文化交流センター」が、先月下旬研修セミナー旅行を企画実施しました。旅行先はバルト三国とロシアのサンクト・ペテルブルグでしたが、主目的地はリトアニアのカウナス。そこには第二次世界大戦中に日本領事館が置かれていて、杉原千畝領事代理が駐在していました。その領事館はそのまま保存されていて、現在「杉原記念館」となっています。

「杉原千畝」という名前はどこかでお聞きになったことがあると思いますが、岐阜県八百津町のお生まれで、愛知五中(現・瑞陵高等学校)出身の外交官。19398月、リトアニアの日本領事館に領事代理として着任。翌年7月、ドイツ軍に追われたユダヤ難民が日本通過のビザ発給を求めて殺到しました。

杉原氏は、日本の外務省宛にビザ発給の許可を求めて何回も請訓電報を打電。しかし、返電はいずれも「不可」。杉原領事代理は、次第に疲弊し憔悴するユダヤ難民を目の当たりにして、ついに決断しました。本国の訓令に反しても、人道的見地からビザ発給に踏み切らざるを得なかったのです。時に1940729日朝のことでした。以後杉原領事代理は、明けても暮れてもビザを書き続けました。

9時から夕5時の閉館時間過ぎまで、食事の時間も惜しんで書き続けました。万年筆は折れ、ペンにインクをつけて書くという難儀な作業の連続。途中からは手を省くため番号付けを取り止め、30銭に相当するリトアニア貨幣の手数料も徴収を停止。一か月近く昼食を摂らずビザを書き続けたため、さすが体の大きな杉原領事代理も体力が衰え、気力だけで書き続ける状態だったといわれます。

その間、ソ連からの数回にわたる退去命令があり、日本の外務省からも「領事館退去命令」が出されていました。まだまだビザを求めて順番待ちのユダヤ難民がいることは承知していましたが、緊迫する情勢と体力の限界を感じ、杉原領事代理は826日ついに領事館を閉鎖して退去することを決断しました。

退去後杉原領事代理一家は、94日までカウナスのホテル・メトロポリスに滞在。この間もユダヤ難民がビザを求めて訪れ、翌朝カウナス駅までやってきたといわれます。さらに汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して「許可証」を書き続けたとのこと。後日談では、正式のビザでなくこの許可証でもソ連領内を通過して日本へ来られたようです。

杉原氏はリトアニアを後にして国際列車でベルリンへ。19409月には、チェコのプラハに総領事代理として赴任。以後、ドイツ・東プロイセン州の日本総領事館やルーマニアの日本公使館に駐在。1942年のこの頃、アウシュビッツのユダヤ人の大量虐殺が始まっています。ルーマニアのブカレスト赴任2年後には空爆が激しくなり、別荘地へ疎開したり夫人が戦乱に巻き込まれたりしました。

19454月にはヒトラーが自殺し、ドイツは降伏。杉原氏の家族は捕らわれの身となり、ソ連の捕虜収容所での暮らしを強いられました。以後、シベリア鉄道でナホトカの収容所へ移され、興安丸で博多港に向かい日本に上陸するまで、19か月に及ぶ艱難辛苦の旅が続きました。19474月、ようやく杉原氏一家は祖国の土を踏むことができました。

ところが、そこに待ち受けていたのは外務省からの辞職勧告だったのです。岡崎外務次官から同年67日「例の件によって責任を問われている。省としてもかばいきれないのです」と言われたということです。時に杉原氏47歳。「例の件」とは何か。言わずもがな、ユダヤ難民に日本通過のビザを発給したことです。本国政府の訓令に反して…。

以後50年近く、彼の人道主義的業績は日本政府にとっては負の業績として封印されたままでした。19851986ごろからようやく日本のマスコミでも、杉原氏がユダヤ人を救出した人道主義者として話題となり、1989年にはニューヨークでADL財団(ユダヤ人援護団体)から「勇気ある人賞」を受賞。ところが、この時すでに杉原千畝氏は亡くなっていました。

相前後して内外のマスコミにもたびたび取り上げられるようになり、1992年には日本の国会でも彼の名誉回復について質疑が行われました。当時の渡辺美智雄外務大臣も宮沢喜一総理大臣も、古いことで資料もなく不明な部分も多い、またその時点では服務命令違反ということであったかも知れないが、名誉回復は当然でありその功績を称えたい、と答弁しています。

さらに、世界各地で杉原氏の功績を称える事業が計画実施されるようになりました。リトアニアのカウナスはもちろん、首都ビリニュスにも杉原千畝顕彰碑が建立され、1992年には生誕地の岐阜県八百津町には「人道の丘公園」が整備され、杉原記念館が建設され顕彰碑が建立されました。

とにかく、本省の意向に背いてまでも人道主義に徹し、自分の生命と職名を賭してユダヤ人にビザを発給し、6000人の命を救った業績にはただただ平伏のほかありません。杉原幸子夫人が書かれた『6000人の命のビザ』の著作を読んでいても、各所で涙が滲み出てきました。「人類愛」とは簡単に言いますが、こうした現場に身を置いた場合、つい保身が先立って杉原氏のような行動はとれるものではありません。また、杉原氏の決断に賛意を表し支援された幸子夫人も、実に偉大な方だったと思います。

合掌

《2009.9.3 住職・本田眞哉・記》



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