法 話

(103)伊勢湾台風50年(上)

円融至徳(えゆうしとく)の嘉号(かごう)

悪を転じて徳を成す正智(しょうち)


難信金剛(なんしんこんごう)の信楽(しんぎょう)は、

疑いを除き証(さとり)を獲(え)しむる真理なり。

               
『教行信証』より
             大府市S・E氏提供

  

伊勢湾台風50年(上)

  

 今年も9月26日がめぐってきました。忘れもしない昭和34(1959)年9月26日土曜日。ちょうど50年目、奇しくも今年昭和84(2009)年9月26日も同じ土曜日。50年前のこの日何があったのか。ご存じの通り「伊勢湾台風」が東海地方に来襲したのです。死者5000人超という史上まれにみる大型台風でした。

 伊勢湾台風からちょうど50年という区切りの年を迎えて、マスコミも当時の資料を発掘したり、体験談を募ったりして防災意識高揚のキャンペーンを張っています。特に地元の『中日新聞』は「伊勢湾台風から50年 濁流の記録」と銘打って2か月余にわたって特集記事を連載しています。当時の記憶をたどりつつ、私の体験談の一端を以下に記してみましょう、

あの日、午後4時5分国鉄名古屋駅発掛川行きの列車はほぼ定刻に発車。大府駅で下車して、地下道を通り武豊線のディーゼル・カーに乗り換え。乗客の数は普段の2~3倍に膨れあがっていました。台風が来るというので、仕事を早めに切り上げて帰宅を急ぐ人が多かったのでしょう。

ディーゼル・カーの入り口に皆が殺到。ガチャンという音がして扉のガラスが割れました。非常に強い風が吹いていましたが、窓ガラスを割るほどの風圧はなかった。おそらく、〝押しくらまんじゅう〟をしている間に誰かのアタッシュケースの角がガラスに当たったのかも…。

確か2両編成だったと思いますが、超満員のディーゼル・カーは、ゼイゼイゼイゼイとエンジンを一杯に吹かしてプラットホームを離れました。私は次の緒川駅で下車。あとで聞いたところによると、次の東浦駅で運転を打ち切ったとか。武豊線の最終列車だったのです。

当時私は、大学を卒業して名古屋市にある私立高等学校の新任教師をしていました。26日は土曜日、翌27日(日)に体育祭を開催することになっていました。台風15号は「大型で強い台風」という情報は得ていましたので、生徒たちを早く下校させ、近くに住む生徒会の役員とそそくさと準備作業を終え帰宅の途につきました。

家に着いたのは午後5時ごろだったと思います。早速懐中電灯を調べたところ、電池がダメだ。街へ下りていって、電気店で単一乾電池4本を求めて帰りました。電気店の辺りでは、電線がビュービューと唸りをあげているものの、風当たりはそれほどでもありません。ところが、家の土台が街の家の二階の屋根ほどの高さにある自坊に帰ると、猛烈な風圧。まっすぐ歩けませんでした。

6時ごろにはもう停電。蝋燭の明かりを頼りに落ち着かない夕食を摂った覚えです。買ってきた単1乾電池2本を懐中電灯にセットし点灯テスト。OK。あと2本の乾電池の使い方は“オレ流”。

中学・高校時代の私の趣味は、模型電車を作ったりラジオを組み立てたり、いわゆる機械いじり。『初歩のラジオ』とか『無線と実験』といった雑誌をよく読んだものでしだ。しかし、大学受験の時期になってこの趣味も中断。大学に入ってから復活しましたが、ちょうどそのころトランジスタが普及し始めていました。ラジオも真空管式からトランジスタ式に急速に変わっていきました。が、私はその流れに乗り遅れ、依然として〝真空管派〟だったのです。

確か名古屋市瑞穂区にあったと思いますが、「白砂電機(器?)」という会社が、「シルバーラジオ」というブランドで携帯(ポータブル)ラジオを売り出しました。初めはかなり大きくて重いシロモノでしたが、トランジスタ式になってから小さくなった覚え(若干思い違いがあるかも)。

いずれにしても超高価な品物で、母子家庭の私にとっては高嶺の花、とても買える代物ではありませんでした。その上、高圧の電池代がバカ高くてとても手が出ませんでした。金満家の子が、これ見よがしに、このポータブル・ラジオを鳴らしながら街を歩いていたのを思い出します。皆が振り返り、なかには後についていった子もあったりして…。

そうそう、昭和51(1976)年、初めてインドネシアを訪れた時、ラジカセをぶら下げてガンガン鳴らしながら、自慢げに街を歩いていた男がました。それを見た時、「シルバーラジオのポータブル」を思い出したものです。

さて、金欠病の私としては、ポータブル・ラジオは自分で作るしかないのです。そこで、刈谷市の「中央無線」とか「刈谷無線」という電気店で部品を買ってきて、雑誌の配線図を頼りに組み立てました。

ポータブル・ラジオ用の真空管は、当時ミニチュア(MT)管か、サブ・ミニチュア(SMT)管。ミニチュア管は、直径2センチぐらいで長さ5~6センチ。普通の真空管(GT管・ST管など)と違ってソケットはなく、ガラス管から直に太さ0.5ミリほどのピンが出ている構造。確か「1R5」、「1S5」とか「1T4」とかいう真空管を使った覚えですが、間違っているかも知れません。

ケースは、羊羹の入っていた木箱を再利用。大きさは、およそ20センチ×10センチ×5センチ。その中へ、検波・増幅・出力等4本の真空管と、コイル・コンデンサー・抵抗などを詰め込みます。スピーカーは入りきらないので、これまた銘菓「二人靜」の入っていた空き箱の廃品利用。中に3インチのパーマネント・ダイナミック・スピーカーがちょうど収まりました。

パーマネント・ダイナミック・スピーカーは、それまでのマグネチック・スピーカーに比べて格段に音質がよく、かなり高価な部品でした。「パーマネント」とは、「パーマネント・マグネット(永久磁石)」の前半を取った略称。円柱状をしたセンター・ポールの永久磁石(N極)と、それを取り巻く鉄芯(S極)の隙間をボイス・コイルが電流の変化によって振動が発生。その振動を円錐形のコーン紙に伝え、コーン紙が空気を振動させて音を出す仕組み。

そうそう、スピーカーといえば、思い出すたびにやるせない気持ちになってしまうことがあります。刈谷高等学校2年在学中のこと。大嶽利蔵という美術の先生がいらっしゃいました。そのご子息の大嶽清君が私と同級生でした。彼もラジオを組み立てるのが好きでした。

ある日、「コーンの破れた12インチのスピーカーがあるが、君にやろうか」と言ってくれました。私にはそんな大きなスピーカーを買う余裕はないので、有り難く頂戴。家へ持ち帰って早速分解。なるほどひどい破れ方だ。ボイス・コイルもダメ。コーン紙は部品として売っていましたので買ってきましたが、ボイス・コイルは売り物がないので自分で作ることにしました。ハトロン紙を2~3枚円筒形に貼り合わせ、その上にエナメル線を巻く。それをセメダインで固定して完成。

このボイス・コイルをコーン紙に取り付けるのが難題。センター・ポールの磁石と、鉄芯の円形の穴との2ミリほどの隙間をボイス・コイルが振動するとき、両極に当たらないように取り付けなければなりません。

充分乾燥するのを待って、ラジオからの出力線を繋ぐ。鳴った! 腹の底に響く低温が見事。スピーカー再生に成功! ただし、このスピーカーの磁石はパーマネント(永久)ではありません。ラジオ本体の整流回路の電流を、センター・ポールに巻いたフィールド・コイルに通すことによって、その時だけ磁石になる方式。当時はまだ大きい永久磁石が廉価で生産できなかったようです。

合掌

《2009.9.25 住職・本田眞哉・記》



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