法 話

(104)伊勢湾台風50年(下)

円融至徳(えゆうしとく)の嘉号(かごう)

悪を転じて徳を成す正智(しょうち)


難信金剛(なんしんこんごう)の信楽(しんぎょう)は、

疑いを除き証(さとり)を獲(え)しむる真理なり。

               
『教行信証』より
             大府市S・E氏提供

  

伊勢湾台風50年(下)

  

 

因みに、大嶽君は高校卒業後航空自衛隊に入り、除隊後は日本航空のパイロットになりました。しかし、残念なことに彼と私は幽明境を異にすることになってしまいました。1972年、日航機がモスクワのシェレメチェボ空港を離陸直後に墜落しました。その飛行機の副操縦士が彼だったのです。

墜落時のボイス・レコーダーに、彼の最後の声があったと報道されました。「ヨッコラショッ!と…」。操縦桿を引いた時の声。当時のテレビが伝えていました。ひょうきん族の彼らしいフレーズ。が、思い出すたびに胸が痛みます。

何度も脱線して恐縮。話を自作のポータブル・ラジオに戻しましょう。懐中電灯に入れた残りの乾電池2本を真空管のヒーター(A)電源としてケースの中へ。問題は高圧(B)電源。一般的には67.5ボルトの積層乾電池を使います。「シルバーラジオ」も当然使っていたと思いますが、これがまた高価。しかもトランジスタと違って、真空管は電気の消費量が大きいから電池の消耗が激しい。とても手が出ません。

そこで考えたのが自転車の発電ランプ。今はどんな自転車でも“標準装備”で最初から付いているようですが、当時はオプション。高校時代に盗難にあって、新たに自転車を買ってもらう段階で、わが家の家計では発電ランプを付けることはできませんでした。あとで、ねだりにねだって買ってもらった覚え。

正面ライト用に12ボルト、テール・ランプ用に6ボルトの端子がありました。12ボルト端子と正面ライトへの配線の間に、ジャンク物(廃品)の(ラジオの)ヒーター・トランスの二次側(低圧)端子を直列に繋ぎます。自転車のペダルを踏めば、1次側に60~70ボルトの高圧電流が発生するはず。そして、その電流をセレン整流器で整流すれば直流の高圧電源が確保できる勘定。その高圧電流をポータブル・ラジオに流し込めばよい。

恐る恐るペダルを踏む。だんだん回転をあげていく。普通の自転車走行の速度まで行かないうちにラジオが鳴りだしました。見事成功! サイクリングで知多半島を一周した時なども、ハンドルに付けた3インチのスピーカーから、軽やかな音楽やニュースが流れていました。

あれから2年、はたしてこの自作ラジオ、非常時の情報収集に役立ってくれるだろうか。6時半ごろ、庫裡の土間に自転車のスタンドを立ててペダルを踏む。ラジオが機能を発揮しだしました。3インチのスピーカーから台風情報が聞こえてきました。最初に飛び込んできたニュースは、名古屋市中村区にあるアパート「中村荘」の倒壊。通勤途中で毎日見かけていた2階建ての木造アパート。

当時、わが家にはテレビも電話もありませんでした。農村振興のためでしたか、「有線放送電話」という物がありました。確かラジオ放送は流れず、交換手兼アナウンサーのお嬢さんが、台風情報や地域の連絡広報事項を伝えたりする一方、電話番号の呼び出しをしていました。

ベルはなく、1回線にパラレルにぶら下がっている10数軒の電話機のスピーカーで、かかってきた相手先の番号を呼び出します。「○○番、○○ばーん」の声を聞いて、自分の家の番号だったら受話器を取って通話。プロテクト回路もなければパスワードもない。同じ回線内なら、受話器を取れば会話は筒抜け。IT時代の今からみれば考えられないシステム。

長時間の停電で優先放送ステーションのバッテリーの容量が落ちたためか、台風情報を伝えるアナウンスは音量不足。加えて、張り巡らしたアルミ線の接合部分が、強風により接触不良を起こしているためか、ガリガリとノイズが入って非常に聞き取りにくい状態。やはり、情報は“自転車ラジオ”に頼るしかない。

「ドドドドドー」と、家全体が唸り声をあげ出し、縁の下を吹き抜ける風の音が「ボー」とものすごい。家全体が持ち上げられそうだ。築200年の古い庫裡は、布基礎もなければボルトもない、柱も束も丸石の上に乗っかっているだけ。風も猫も縁の下を通り抜け。

そのうちに床下の風圧で畳が浮き上がりだしました。昔式の木製のガラス戸は、風圧のため内側へ4~5センチ撓って今にも折れそう。何かつっかい棒を、と探しても何も見あたりません。そこでタンスの引き出しを空にして、廊下を隔てた敷居を支点にしてつっかい棒の代用に。

本堂に入ると立っていられないほど揺れています。すでに南側の厚さ二十センチほどの壁が破れたらしく、内部は暴風状態。掛け軸は破れ、厚さ十センチの畳が十メートルも吹き飛ばされています。北側の窓は、ガラス戸四本が施錠状態のまま外側へ落ちて吹き抜け状態。手の施しようがないので庫裡へ帰ると、あちこちから「ガチャン」「バリバリ」「ガラガラ」と物が壊れる音。

時計をみると9時少し前。また自転車をこいでニュースを聞く。6時過ぎに紀伊半島の潮ノ岬付近に上陸して北北東に進んでいるとか。地図上で、台風の速度をもとに縮尺を当てはめて計算。もう少しの辛抱だ、ピークは近い、と自らを励ます。期待とは裏腹に風雨はますます強くなっていく。恐怖に身が震えだしました。

9時半ごろでした。一段と強い風に家がきしみ初め、羽目板か戸板か破れるような音。瓦の飛ぶ音も急激に増えました。と同時に風向きが変わりました。今まで東の風であったのが、南東に変わりました。雨戸に吹き付ける風雨の音で分かるのです。あっ、これがピークだ。そう、古老から聞いた話。風向きが変わる時に一番強い風が吹く、と。ノイズを出していた有線放送がプツッと切れてしまいました。

午後11時ごろ外に出てみましたら、直径1メートル余、高さ30メートル、樹齢200年の銀杏の木が倒れていました。根元のトイレを公道にはね上げ、墓石をなぎ倒し、有線放送の電線も切断していました。とすると、9時半ごろ、風速のピーク、風向が変わった時に銀杏の木は倒れたのです。おそらく瞬間風速は45~50メートルはあったでありましょう。

東浦町の資料によれば、隣接半田市の亀崎測候所では、瞬間最大風速48メートルを記録しているとのこと。また、同資料には台風の進路と勢力の記録もあります。18時の上陸時は930ミリバール。以後北北東に進路をとり、20時には奈良・三重県境の高見峠あたりに達し、940ミリバール。そして、21時には鈴鹿峠あたりに進み、依然940ミリバールの勢力を保っていました。その30分後がわが町に最接近したものと読みとれます。私が計算した位置と時間がピタリ一致。

とにかく猛烈な台風でした。死者は5,000人以上にのぼりました。わが東浦町でも死者25人、負傷者は200人余。住宅の全半壊・流失・浸水被害は200余戸に及んでいます。

1週間後でしたか高校生を引率して鍋田干拓方面へ救援作業奉仕に行ったことも思い出しますが、そこまで言及できませんでした。自作のラジオが情報収集に役立ったことを中心に伊勢湾台風の体験記をまとめてみました。

情報収集の重要さもさることながら、次代を担う子どもたちには日常生活における創意工夫が、いかに人生を楽しく豊かにしてくれるものか、ということを知ってもらいたいと願うや切であります。仮説を立てて実験し、仮設が実現できた時の喜びと感動は何ものにも代えがたいものだ。単にキットを組み立てたり、既製品を楽しんだりするのでなく、リサイクルと創意工夫で新しい世界を拓いてもらいたいものです。

合掌

《2009.9.25 住職・本田眞哉・記》



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