法 話

(105)ただ念仏して

親鸞におきては、だだ念仏して

弥陀にたすけられまいらすべしと


よきひとのおせをかぶりて、

信ずるほかに別の子細なきなり

               
『歎異抄』より
             大府市S・E氏提供

  

ただ念仏して

    

毎年11月・12月は報恩講シーズン。京都の本山・東本願寺で1121日から同28日まで厳修されるのをはじめ、全国のわが真宗大谷派の別院や末寺では、11月から12月にかけて報恩講が勤められます。またこの時期、一般ご門徒のお内仏でも報恩講をお勤めする伝統が受け継ぎ伝えられてきています。中には10月や1月から2月にかけて勤められるところもあります。

 なぜ報恩講シーズンがこの時期か、とお尋ねの向きもおありかと思いますが、宗祖・親鸞聖人の御命日(亡くなられた日)を期してお勤めするからです。親鸞聖人は、1262(弘長2)年1128日に90歳でお亡くなりになりました。爾来、報恩講は700有余年間、親鸞聖人の遺徳を讃える真宗の伝統的仏事として年々歳々全国各地で厳修されてきました。

 では、700年余にわたりその教えが伝承され、遺徳が讃えられる親鸞聖人とは一体どんな方だったでしょうか。そのご生涯とみ教えの一端を尋ねてみましょう。

 聖人は鎌倉時代の1173(承安3)年41日、日野有範の子として生を享けられました。9歳の時青蓮院で得度を受け、比叡山に登り仏教を学び修行に励まれました。当時の比叡山は仏教学の、否、すべての学問の日本における最高学府といわれたものの、純粋な修学修行の総本山からいささか変質し、世俗的権力化の流れが強くなっていました。

 聖人はそうした比叡山のあり方に疑問を抱くとともに、自分自身に燃えさかる煩悩の炎の処理に悩み続けていました。『親鸞聖人伝絵』には、「定水凝らすといえども、識浪頻りに起こり、心月を観ずといえども妄雲なお覆う」とのご自身の告白が記されています。そして聖人は生涯「煩悩具足の悪人」「煩悩熾盛の凡夫」「煩悩深重のわれら」との自覚のもと、手紙をはじめ数々の著作の中にこれらの文言が記されています。

 比叡山における修行の中で聖人は、煩悩を背負って生まれ落ち、その煩悩を死に至るまで背負い続けなければならないのだと気づき始めていました。一心不乱に難行苦行に打ちこんでも、燃えさかる煩悩の炎は消せなかったのです。山内の念仏三昧堂の堂僧となって、念仏の行を積み上げても煩悩の火の粉を払うことはできませんでした。

 そうしたなか、聖人は悶々とした心のまま比叡山後にして、聖徳太子が建てたと伝えられる京都・烏丸にある六角堂に参籠。聖人29歳。参籠95日目、京都は吉水にある法然上人の庵を訪ねるように、との聖徳太子の示現を得ました。法然上人はもうすでにそのころ、吉水で念仏の教えを説いておられたのです。親鸞聖人は早速吉水の庵を訪れて念仏による救いを求めました。

以後聖人の吉水通いが始まりました。そして末法の世における救いは何かと訪ねたのに対して、法然上人からの答えは「末法の世における救いはただ一つ、常に念仏を唱えること。それによって善人も悪人も区別することなく平等に救われる」でした。聖人はこの答えに感動しつつも、法然上人に念仏のいわれを問い続けたといわれます。そして百日目に、ようやく弥陀の本願を信じ、念仏すれば助かるとの教えを納得して受け入れることができたのです。自力の念仏者から他力の念仏者への回心(えしん)を遂げられたのです。

この回心の時のことをご自身は「雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す」とおっしゃっています。自力の行から他力の念仏への大転換です。また、『歎異抄』には「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべきと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と記されています。(*よきひと=法然上人)

 かくして他力の信心を得た親鸞聖人は「煩悩具足の仏」とも言われますが、大きく変わりました。蟻地獄の底で悶え苦しんでいた身が、回心を境としてバラ色の人生を自分の中に見出されたのです。『歎異抄』第7段には「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には、天神地祇(てんじんじぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も障碍(しょうげ)することなし」とあります。

 因みに、親鸞聖人の教えや浄土真宗の教義を端的に表現するフレーズはいろいろあります。「本願を信じ念仏申さば仏になる」「念仏成仏是真宗(ねんぶつじょうぶつこれしんしゅう)」「専修念仏(せんじゅねんぶつ)のともがら」「称名念仏」等々。ではこの「念仏」とは一体何なのでしょう。辞書によれば「仏を念じて口に仏の名を称えること」などとなっています。親鸞聖人のライフ・ワーク『教行信鉦』には「念仏は即ち是れ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏は即ち是正念なり」とあります。

 その「南無阿弥陀仏」、何気なく称えていますが、これまた一体何語でどんな意味があるのでしょう。そのオリジンから検証してみましょう。語源はサンスクリット語の「ナモー・アミター・ユス・ブハー・ブッダ」。ナモーは、帰依する、帰命するの意。アミターは、限りがない・無限の意。ユスは寿・命の意。ブハーは光の意。ブッダは仏陀・仏の意。

 したがって、「ナムアミダブツ」はサンスクリット語の発音を日本語の発音で表したにすぎず、「南に無い…」というような意味を表したものではありません。発音を写しただけなのでこういう表現を「音写」と言います。古い文書の中には、「ナモアミダブツ」とルビが振ってあるものも見受けられます。

 では、日本語の意味が分かるように表記するとどうなるのでしょう。ナモー=帰命、アミター・ユス=無量寿、アミター・ブハー=無量光、ブッダ=如来・仏、となります。これを続けると帰命無量寿無量光如来。まさに、親鸞聖人のライフ・ワーク『教行信証』の中にある漢文の詩「正信偈(しょうしんげ)」の冒頭の一句「帰命無量寿如来」そのものです。

また、無量寿・無量光如来のことを「阿弥陀如来」とも言いますが、これはアミター(無量)の音写と意訳を織り交ぜた表現です。真宗大谷派のご門徒のお内仏のご本尊は、阿弥陀如来の絵像または木像。これは「無量寿如来」をかたどったお姿です。

そして左右に九字・十字の名号がお脇掛けとして安置されます。九字名号は「南無不可思議光如来」、十字名号は「帰命尽十方無碍光如来」。いずれも「無量光如来」を表意しています。したがって、ご本尊と両脇掛けで原語のアミター・ユス、アミター・ブハーとブッダを象徴的に表現しているわけです。

 いずれにしても、こうした永遠の命に裏付けされ無量の光を放つ仏を念ずることによって私たちは、仏の智慧の光に照らされて煩悩の闇から解放されるとお教えいただくのです。難行・苦行ができない私たちにも救われる道があるのです。それが念仏の教え。「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし…」、末法の世に無知で罪悪深重の私たちが助かる道はただ一つ、それは念仏の教え。親鸞聖人は今から800年前、この道を開いてくださったのです。

合掌

《2009.12.2 住職・本田眞哉・記》



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