法 話

(108)「真宗の本尊(上)

 
 阿弥陀仏は光明なり

 
 光明は智慧のかたちなり

 

大府市S・E氏提供

真宗教団連合『法語カレンダーより

   真宗の本尊(上)


時の経つのは速いもので、今年ももう2か月が過ぎ去り『法語カレンダー』も2月のページをめくる日となりました。その2月のページに掲げられていました法語は、「阿弥陀仏は光明なり 光明は智慧のかたちなり」。我が真宗大谷派の「宗憲」(宗派の憲法)第九条には、「本派は阿弥陀如来一仏を本尊とする」と謳われています。そう、真宗大谷派では阿弥陀仏(如来)を「本尊」としています。

したがって、真宗大谷派の寺院の本堂の中心には、阿弥陀如来の木像か絵像が安置されています。もちろん当山了願寺の本堂の内陣の中心、須弥壇(しゅみだん)上には阿弥陀如来の立像が安置されています。また、真宗門徒のご家庭のお内仏(仏壇)の正面中心には阿弥陀如来の木像または絵像が安置されています。

寺院の場合もご家庭の場合も、ご本尊には「光背」が設えられています。木像の場合ですと、阿弥陀如来の頭部の背後を中心として、光が立体材で放射状に表現されています。絵像の場合は、同じく阿弥陀如来の頭部の背後を中心にして光の線が放射状に描かれています。子どものころ、太陽を描くときに赤いクレヨンで丸く塗りつぶし、周りに放射状に線を描いて太陽光線を表現したことを思い出します。それと同じように、仏さまから光明が放たれていることを象徴的に表したのがこの光背です。

そして、このご本尊の光明は「智慧のかたちなり」とありますように、「智慧」を象徴的に表現しております。「煩悩(ぼんのう)に眼(まなこ)さえられて」暗闇の中にいる私たちに智慧の光明を照らして、はやく目覚めてくれよと願いをかけてくださっているのです。一般的には、衆生が神や仏に願いをかけるのですが、親鸞聖人の教えにおいてはこれが全く逆で、仏の方から私たちに願いをかけてくださっているのです。その仏さまの願い・四十八願が隅々まで光となって届くことを象徴して描かれた光明、その数は四十八本になっています。

お内仏の正面には、この阿弥陀仏の右側に「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の十字名号、そして左側に「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」の九字名号がお脇掛けとして掲げられています。いずれも名号の下端に蓮台が描かれた軸装となっています。この十字・九字名号は中央の阿弥陀如来の用(はたらき)を言葉で表現したものです。

その意味はといえば、まず「帰命尽十方無碍光如来」を読み下しますと、「十方を尽くして(煩悩・悪業に)妨げられることのない光を放つ仏さまに帰命する」となります。ここで大事なことは「帰命」。帰命は「帰投」ともいわれるように、我が身をゼロにして、我が計らいを全て捨てて、阿弥陀仏の前に身を投げ出して全てをお任せするということです。なお、この十字名号は全て日本語。

次に「南無不可思議光如来」はインド語と日本語の混合体。「南無」はインド語のNamoの発音を漢字で表現したもので「音写」といます。したがって、“南に無い”といったような意味は全く無く、前述の帰命・帰依・帰投の意。「不可思議光」の意味はといえば、人間の知恵で思議すること、考えることのできない光ということです。要するに、人知を越えた智慧の光の仏さまの前に我が身を投げ出し、その光に照らし出されることによって我が身の実存、本当の自分自身が明らかになるということでしょう。

一方、中尊木像・絵像の阿弥陀仏を文字で表すと「南無阿弥陀仏」。おなじみの六字名号ですが、この名号は全てインド語の音写。「南無」は前述のとおりですが、次の「阿弥陀」はインド語の「Amita」の音写。「A」は否定の意味の接頭語、「mita」は限りがあるの意。したがって「Amita」は限りがない、無量の意。その後に本来は「yus=寿」と「buha=光」があるのですが省略されて、最後に「仏」。「仏」はインド語の「Buddha」の音写。音写「仏」はすでに日本語になっていますが、その意味するところの日本語は「如来」。「如来」は「真如より来生したもう」といわれるように、真如・一如・真理の世界より私たちの前に現れてくださった仏さま。【次号へ続く】

2010.3.1 住職・本田眞哉・記》
  

 

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