法 話

(109)「真宗の本尊(下)

 
 阿弥陀仏は光明なり

 
 光明は智慧のかたちなり

 

大府市S・E氏提供

真宗教団連合『法語カレンダーより

  

   真宗の本尊(下)

真宗の本尊阿弥陀如来の絵像の裏書きには「方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)」とあります。「方便」といいますと、「嘘も方便」とわれるように一般的には偽物とかネガティブなイメージですが、この方便はそうではありません。語源はインド語の「Upaya(ウパーヤ)」で、元の意味は「coming near近づいてくる」。真如・一如の世界の仏さまを方便法身に対して「法性法身(ほっしょうほっしん)」といいます。この仏さまは「いろもなし、かたちもましまさず」といわれますように、私たちの知覚では認識することができません。その法性法身が言葉となって、形となって私たちに近づいてくる仏さまが「方便法身」なのです。衆生を救おうと法性法身から形を示現して私たちに近づいてくる仏身が方便法身。

以上記しましたように、真宗の本尊は阿弥陀仏。そして、その両脇に阿弥陀仏の用(はたら)きを文字で表した十字名号と九字名号の軸をお掛けします。問題は、そのお内仏の前であるいは寺の本堂で、ご本尊にお参りするときの「心」。商売が繁盛しますようにとか、大学の入試に合格しますようにとか、あるいは憎らしい隣の親父が病気で倒れますようにとか、いわゆる現世利益を得る心でお参りしていないか。日常生活の中で改めて問い直さなければならないと思います。親鸞聖人は教えの中でこの点を厳しく指摘していらっしゃいます。

竹部勝之進氏は次のような詩を作っていらっしゃいます。

  我ガ身ガ我ガ身ニアウ

  手ノ舞イ足ノ踏ムトコロヲ知ラズ

  我ガ身ガ我ガ身ニアウ

  コレ我ガ身ノ生キ甲斐

この詩から発信されていることは一体何なのでしょう。私なりに受け止めさせていただきましたところを以下に記してみましょう。

まず、最初の「我ガ身」と次の「我ガ身」は、表記された文字は同じですが、内実は違うと思います。端的にいうならば、最初の「我ガ身」は「自己」、次の「我ガ身」は「自我」。じゃ、自己と自我はどう違うのかとのお尋ねのむきもありましょう。「自我」は自分の思うようにしたい、自分さえよければよいと思う私。「自己」は表面に姿を現さない本来的自己、あるいは仏性と申したらよろしいか、私の内面奥深いところにあるもう一人の私。

したがって、「我ガ身ガ我ガ身ニアウ」ということは、自分中心の自我が本来的自己・仏性にあって、自我の実存が明らかになるということでしょう。そして自我が明らかになったその瞬間、嬉しさの余り手の置き所もなくなり、足も地に着かないほど舞い上がってしまったということでしょう。まさにわが真宗で古来言い習わされて来た「信心歓喜(しんじんかんぎ)」そのものでしょう。

さらに後半で「我ガ身ガ我ガ身ニアウ」ことができたことによって、真の生き甲斐に出会えたとその喜びを高らかに歌い上げていらっしゃいます。素晴らしい詩です。表現もさることながら、その内容が凄い。古来からの表現を使えばまさに「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」の姿。私(自我)を私自身(自己)遇わせようと建立されたのが阿弥陀如来の本願。その仏の本願に出会うためには、本尊さまの前に身を置いて仏さまの呼び声を聞くほかありません。そのためにも、できるだけ多く聞法の座に連座して聴聞に努めたいものです。【完】

2010.3.1 住職・本田眞哉・記》
  

 

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