法 話
(110)「住職在任五十年」
七寶講堂道場樹 |
|
大府市S・E氏提供 |
親鸞聖人作『浄土和讃』より
住職在任五十年
私が当山了願寺の住職を拝命したのは、大学を卒業した1959年の秋。弱冠23歳でした。ついこの間のように思えるのですが“光陰矢の如し”、あっという間に50年が過ぎ去りました。去る4月1日、本山・東本願寺において、「住職在任五十年記念畳袈裟」を受領しました。表彰の名義は住職個人名ではありますが、その背景には当山役員各位のご支援と、寺族や関係者の協力のお陰があったことは言うまでもありません。感謝の念一入です。
当日は、午前8時より本山の大寝殿で受付・接待があり、そのあと修復成った御影堂で授与式。親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を2011(平成23)年に迎えるに当たって、記念事業として御影堂の修復整備が計画されました。御影堂はたびたび火災にあった後、1895(明治28)に再建。以後100年を経て、このたび大修復工事が実施され、5年余の歳月をかけてようやく竣工の運びとなりました。
午前9時開式。真宗宗歌斉唱、門首あいさつに続き、東本願寺を本山とする真宗大谷派の宗務総長から記念畳袈裟雅授与されました。全国から42名が出席していましたが、身体の都合で欠席の方もあったようで、在任50年該当者は50名余。我が宗派の寺院は全国で10、000か寺近くありますが、その0.5%の中に私が含まれたことは光栄の至りです。宗務総長のねぎらいの言葉をいただいた後簡単な勤行をお勤めして阿弥陀堂へ。
阿弥陀堂では午前10時からの「師徳奉讃法要」に参拝。この法要は恒例「春の法要」の一環として毎年勤められています。宗祖親鸞聖人が讃嘆しておられる聖徳太子・七高僧をはじめ、今日の私どもにまで本願念仏のみ教えを伝えてくださった、すべての師主知識の恩徳を奉賛する法要。門首が導師を勤められ、名古屋地区の楽人が演奏する「楽」が法要に彩りを添えていました。
因みに、今回の御影堂修復工事は、堂全体を覆う仮設建物「素屋根」の中で風雨に妨げられることなく進められました。工事が完了すればこの素屋根は不要となり解体するのが普通。しかし、構築に8億円を要したこともあり、解体にはまたそれなりの費用がかかるため、御遠忌後に計画されている第2期・阿弥陀堂修復工事に再利用することに。素屋根はレールに乗せて南方へスライドし、今は阿弥陀堂をすっぽり覆っています。
法要参拝後、大玄関で記念撮影。出席住職は42名とはいうものの、本山の役職者や同伴者が加わるため総勢は約100名。カメラマンはカメラ位置の設定や列の調整にあちこち走り回って大変。ようやく記念撮影も終わり、大寝殿で会食。豪華な料理にお酒も出されて和らいだ雰囲気に。宗務職員の方々がお酌に回っておられましたが、私こと車で上山したため一滴もいただけませんでした。隣席の方たちと在任中の苦労話などしつつ楽しい一時を過ごすことができました。
過ぎ去った50年を振り返ってみますと、教化面では宗門再生運動「同朋会運動」の草創期から成熟期までが在任期間の前半を占めています。宗門全体が活力に満ちあふれていた時代でした。本山も教区も組も末寺も教団活性化に向けて猛烈なエネルギーを傾注して運動を展開しました。それまでの「説教」にない高度な内容の「特別伝道」にも門徒の皆さんが大変な意気込みで参加されたことを思い出します。
当山了願寺でも「東浦同朋会」が結成され、現在も活動を続けています。年間6回の例会と1回の総会を開催。本年3月で通算252回を数えております。毎回20~30名の会員の方々が出席され、聞方に励んでおられます。先代から受け継いだ伝統的定例法要ももちろん従前どおり勤修して参りました。報恩講、修正会、彼岸会、永代経等々。また、親鸞聖人の七百回御遠忌法要、親鸞聖人御誕生八百年慶讃法要、蓮如上人の五百回御遠忌法要といった大規模な法要も勤めさせていただくことができました。
◇ ◇ ◇
一方、私の在任50年の生涯は「土木建築住職」だったのかなとの思いもあります。太平洋戦争末期1944(昭和19)年12月7日の「東南海地震」、翌1945(昭和20)年1月13日発生の「三河地震」で本堂・伽藍は甚大な被害を受けました。しかし当時の戦時・戦後情勢下では、応急修理のみで根本的な復旧工事はできませんでした。
住職就任の1959(昭和34)年9月26日には伊勢湾台風が襲来し、東海地区に前代未聞の大被害をもたらしました。死者・行方不明者5.000人。もちろん当山の被害も並大抵ではなく、特に本堂は大屋根の破風が破れ、天井は落ち、厚さ20㎝もある畳が吹き飛ばされていた様子が今でも瞼を離れません。半壊寸前といっても過言ではない状態。修復事業には膨大な資金とエネルギーを費やしましたが、おかげさまで1965(昭和40)年竣工し、親鸞聖人七百回御遠忌法要を勤修。
翌々年聞法の会「東浦同朋会」を結成。教化活動にエネルギーを傾注できると思ったのも束の間、押し寄せるモータリゼーションのなか、自動車用参道開設の必要性に迫られ、参道開設・駐車場新設事業を開始。先ずは山門前から旧県道までの拡幅工事を着工。道幅1.8mほどの地方道に、当山の敷地幅2.7mほどを無償提供して、幅員4.5mほどの参道を開設するという計画。途中に当山の竹藪を切り開いて駐車スペース2台分を確保。かくして1969(昭和44)年第1期工事完成。
第二期工事は、駐車スペースの竹藪をさらに切り開いて奥へ上り、段差のある畑を駐車場に転用使用とする計画を立案。加えて手狭になった墓地の拡張部分も確保しようというもの。前期同様標高差が10mほどある急傾斜地での工事なのでかなり難工事でした。が、役員一同知恵を出し合い、土建業者の協力も得て、1973(昭和48)年墓地拡張工事も併せて駐車場第2期工事竣工。
一方、経常的な寺門興隆の支援組織として1976(昭和51)年「了願寺維持振興会」を設立。会則の第二条(目的)には、「本会は、宗祖親鸞聖人の立教開宗の本旨に基づく教法宣布の道場了願寺の維持振興を図り、法義相続することを目的とする」と謳われています。したがって、主な事業は本山経常費の納入・本堂等伽藍の火災保険の掛け金納入・小規模な営繕等々。
1980(昭和55)年には、「親鸞聖人御誕生八百年慶讃法要」を計画。記念事業は、会館兼書院の新築・玄関の新設・本堂内陣の整備。記念事業を含めた法要総予算は5,000万円。会館は当山初の鉄筋コンクーリート造の建物。ただし、外観は和風屋根で日本古来の趣を確保。木造部分も含めた新築総面積は250㎡余。ご門徒各位の絶大なご協力を得て事業円成、1982(昭和57)年3月慶讃法要を厳修。
1986(昭和61)年、寺務所「法輪閣」を新築。1階は自家用自動車ガレージ。2階は音楽教室。3階は寺院事務所。寺院事務所にはパソコン、プリンター、コピー機、輪転印刷機、切断機、高性能電話回線等々、数々の事務周辺機器を設置。こうした事務機器等が必要な上、それらを有機的に活用しなければいけない時代になりました。いわば「ネット・ワーク」が求められる時代。そうした要素も織り込んだ鉄骨ALC 張りの事務所を新築しました。費用は寺院の経常会計から支弁しました。
1994(平成6)年のある好天の日、突然庫裡の屋根の一部が大音響とともに抜け落ちました。築250年の庫裡、いよいよ建替えしなければならなくなり計画を策定。住居部分もあることから、建築様式は木造でもちろん和風。しかも少々こだわって「民家再生」で有名な長野県の建築家・降幡廣信氏に設計監理を依頼しました。総事業費1億5000万円余で事業完了。1996(平成8)年に落慶法要を厳修。
21世紀に入った2001(平成13)年、「蓮如上人五百回御遠忌法要計画」を発表。記念事業は、本堂の屋根葺替え・内陣荘厳の修復・出仕廊下新設。本堂は1965(昭和40)の大修復以来30数年を経て、雨漏りまでには至っていないものの屋根と外壁はかなり痛んできたため、私の代では再度となりますが修復しようというもの。
また、内陣荘厳については前回予算の関係でほんの少ししか手が入っていないため、今回は重点的に整備しようということになりました。また、痕跡から100年ほど前まではあったと思われる出仕廊下の復元。報恩講などの法要の折りに控えの書院から本堂内陣に出仕する場合、玄関の方へは回らず、書院から出仕廊下を通って直接本堂の後堂に至るのが常道。そのためには失われた出仕廊下を復元しなければなりません。
以上の事業を計画に盛り込んだ結果、事業費総予算は1億5千800万円余に膨らみました。役員のみなさんに依る熱心な募財活動が効を奏するとともに、ご門徒各位の深いご理解と護法の念により寄附金の記帳額が目標額に達することができました。予算の目途が就いた時点で工事に取りかかり、2004(平成16)年には竣工を見ることができました。
かくして同年3月、記念事業円成の落慶法要と蓮如上人五百回御遠忌法要を併せて勤修することができました。感激の至りです。当山の役員・ご門徒のみなさんをはじめ、ご指導・ご支援を賜りました関係各位には深甚の謝意を表する次第です。第16代住職としての大事業への取り組みはこれが最後となりましょう。
余談ながら、住職1代の年数はほぼ平均30年と見たらよろしいかと。したがって16代ならば30×16=480(年)。当山了願寺の開創は西暦1525年とされていますから、1525+480=2005、ほぼ符合するようです。
また、住職に50年在任できるのは、不幸な回り合わせか非常に長寿で幸せかの両極だとも言われています。私は先代の父を4歳の時に亡くしており、不幸な境遇で育ちました。戦中・戦後のこととて、母親も女手一つで大変だったと思います。よく頑張って寺を守ってくれました。
50年間の回顧録、書けば書くほどいろいろなことが脳裏に浮かんできますが、この辺でピリオドを打ちたいと思います。 合掌
《2010.5.3 住職・本田眞哉・記》