法 話

(116)「本当の願い」
  

大府市S・E氏提供


「本当の願い」

  

当山了願寺は、今さら言うまでもなく「真宗大谷派」という教団に属しています。本山は、京都市烏丸にある「東本願寺」であります。その名が物語っているように、わが宗派の「宗」とするところは「本願の教え」です。では、その「本願」とは何ぞや、という疑問をお持ちの方もいらっしゃいましょう。

「願い」。私たちにはいろいろな願いがあります。お金儲けをしたい、入学試験に合格したい、病気にかからないようにしたい、家を持ちたい、子どもが欲しい等々。はたまた、会社で上の役職に昇進したい、市会議員等の選挙に立候補した人は是非とも当選したい…私たち凡夫の願いは切りがありません。

こうした願いを叶えるために、人々は太古の昔から神様に祈ったり、仏さまに願を掛けたりしてきました。こうした行為を静かに見据えてみますと、その裏には自分の欲望を満たすためという利己の本質が見え隠れしています。一般的には、そうしたことを祈ったり願ったりしても、誰に迷惑を掛けるわけでもないし、願いが叶ってその人の欲望が満たされれば結構なことじゃないか、とおっしゃるムキもおありかと思います。ところが、この祈りの行為を突き詰めて行きますと、非常に残酷な側面を持っていることが分かります。

昔、「子の刻参り」という習俗があったと聞き及んでいます。まず、積み重なった憎しみを抱いている人物の藁人形を作って神社か仏閣の境内に持ち込む。そして毎日子の刻(深夜11時~午前1時)に人目に触れないようにお参りして、その藁人形に五寸釘を打ち込んで憎む人物を祈り殺すというものです。

百日か三百日か知りませんが、毎夜毎夜子の刻にお参りして憎む相手に見立てた人形に五寸釘を打ち続けて祈る。その結果相手が病に倒れたり死んだりすれば願いが叶えられたことになります。が、こうした行為が宗教的行為といえるでしょうか。神・仏を殺人の道具として、あるいは他人を不幸に陥れるための手段として使う。これが本当の宗教といえるのかどうか、今さらいうまでもないことでしょう。

ところが、これと同類のことが現代社会においても堂々と行われています。それは大学入学試験合格祈願。絵馬などを供えて合格祈願をしている風景がテレビなどでよく報道されています。この光景に顔をしかめる人は殆どいないと思います。ところがその本質においては前述の「子の刻参り」と同質のものがあるのです。

例えば、ある大学の50人定員の医学部を自分の子どもが目指して猛勉強をしているとしましょう。模擬テストなどの結果を見ると、成績はボーダー・ラインぎりぎり。一方、受験者のいとこも同じ大学の医学部を受験することが分かりました。ご多分に漏れず両受験者とも合格を祈願して神頼み。

合格を祈願するということは、いうまでもなく競争相手を一人でも多く蹴落とすということ。極端なことをいえば、自分の息子と息子のいとこが入学定員50名の49番目に並んだとしたら、いとこを蹴落として自分の息子が合格ラインに入るように祈ることになりましょう。頼まれた神様もさぞお困りでしょう。問題の本質は「子の刻参り」とあまり変わりありません。

親鸞聖人は、「愚禿悲嘆述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」で次のような一首を作っておられます。

  かなしきかなや道俗の

  良時吉日(きちにち)えらばしめ

  天神地祗(てんじんじぎ)をあがめつつ

  卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす

細かな解釈は省きその大意を窺いますと、「人間は自分の欲望を満たすために、あるいは自分の都合のよいようになるように、神に祈ったり仏に願を掛けたりしている。嘆かわしいことだ」とおっしゃっているのです。お金が儲かるように、病気が治るように、災害に遭わないようにといった自分の欲望を叶えるために、日柄方位を選んだり、天の神・地の神に祈ったり、あるいは人相・手相・印相・家相・募相を頼ったりしているのです。

本当の願い・仏の本願は、そういった人間の欲望を助ける願いではりません。むしろ逆で、そうした除災招福の願いに血道を上げる実態に光を当てて、そうした心のメカニズムを明らかにして、一刻も早く気づいてくれよと私たちに願いを掛けてくださっているのです。本願は私たちの方から掛ける願いではなくて、逆に仏さまの方から私たちに掛けられている願いなのです。

他の宗派では、凡夫の方から仏の方に願いを掛けるという教えが多いのですが、親鸞聖人の教えは逆で、仏の方から私たちの日暮らしは、価値観はそれでよいのかと問いかけ、真実に早く気づいてくれよと、私たちが仏さまから願われているという教えです。願いのベクトルが他の教えとは全く逆であることに心すべきでしょう。

合掌

2010.11.3 住職・本田眞哉・記》

 

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