法 話

(119)「賽銭」あれこれ 
   

大府市S・E氏提供

  

賽銭」あれこれ

 先日、NHKの報道番組の中で初詣の総括の意味も込めてか、「賽銭」にまつわる話題が放送されていました。確か京都の神社での取材だったと思いますが、最近お賽銭の中に外国通貨が多く見られるようになったとか。参拝に来た中国人は、カメラの前で日本のコインと中国のコインを見せて、両国の通貨をお賽銭として投げ入れていました。

 ズーム・アップされた賽銭群の中には、外国の紙幣が散見されました。中国や韓国の紙幣、ドル札やユーロ札、そしてインドのお札。中には一見しただけでは分からない国の紙幣も。硬貨についても、さまざまな国のコインが10円玉100円玉500円玉に交じって鈍い光を放っていました。中には周囲が銀色、中央が金色に輝く珍しいコインが大きく映し出されていました。

 同じ賽銭の話題の中で、取材先が名古屋西区の八坂神社に変わりました。それほど大きな神社ではなかったと思いますが、ちょっと変わった慣わしを紹介していました。大人がコインの賽銭を賽銭箱でなく参道に投げます。すると、どこからともなく数人の子どもたちが現れ、われ先にとコインを拾います。もちろん、投げられるコインの数は1個、2個ではなく、一握り、二握りという単位。

 ナレーションに依れば、その“趣旨”は「神様からのお年玉が分け隔てなく子どもたち与えられるように」とのこと。よう分かりませんが、伝統的に行われている行事のようです。じゃあ、その神社の正月の賽銭収入はゼロということになるのかな?と下衆の感繰り。それよりもっと気になるのは、この話を聞きつけて子どもたちがワンサと集まってきたらどうするのでしょう。いや、ご心配なく、参加できる子どもはその神社の「氏子」の子どもたちに限られるとか。

 風変わりな風習もあるものだな、と感心してTVニュースを視ていました。ところで、「賽銭」にはそもそもどんな意味があるのでしょう。辞典で調べてみましたら「寺社へ参詣して、神仏に奉納する金銭」(大意:『辞林』『広辞苑』『新解国語辞典』)とありました。他に「賽」は「報いる」で「報恩感謝の意を捧げる」(『真宗辞典』)の記述もありました。

 いずれにしても、賽銭は「報恩感謝」の意を込めて「奉納」する金銭ということになりましょう。逆の視点からすれば、神仏に何かをお願いする、祈願する代価として賽銭を投げるのではないということは明らかです。ところが、正月のテレビ番組で「そんな大きな願い事をするのに賽銭は幾ら上げたの?」などとしゃべくりあっているケースもあります。やはり、お賽銭は願い事の代価として捧げるものだ、ということが常識化しているのでしょうか。

 以前、賽銭を投げるという行為は、金銭に執着する煩悩を断ち切るためだ、というような説を聞いたことがあります。通貨経済で成り立っている今日の経済社会、お金が万能といっても過言ではありますまい。したがってその金銭に全く執着しないという人がいたとすればそれはまさに“仙人”でしょう。せめて神仏にお参りする時ぐらいは金銭に対する執着心から離れるように、物理的にわが身からお金を切り離すために賽銭を投げる、ということでしょう。一理ある説かも。

 そうした考えからすると、名古屋・西区の神社で子どもたちが賽銭を拾い集めるという慣わしは一体どういう教えに根拠があるのかな、と首をかしがざるを得ません。拾い集めた賽銭を何かに役立たせるという解説はなかったように思いますし…。子どもたちはそのお賽銭をそのまま自分のお年玉にしてしまったのでしょうか。となると、子どもたちにお金に関わる執着を助長してしまうような気がしてなりません。

 前段の外国通貨のお賽銭はどの神社にもあるようですが、両替せずにユニセフの方へ寄付されるようです。ユーロやドルや人民元やウォンの紙幣は国内の銀行で日本円に交換できますが、硬貨やあまりなじみのない国の通貨は簡単に日本円に換えることができません。したがって、外貨のお賽銭をユニセフに寄付するというアイデアは非常に賢明だと思います。初詣に外国人が増えたということは、日本社会のグローバル化が一段と進んだことを示していると思われます。       

合掌

2011.1.28 住職・本田眞哉・記》

 

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