法 話

(120)「激震と戦争」 
   

煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)

火宅無常
(かたくむじょう)の世界は、

よろずのこと、みなもって、

そらごとたわごと、まことあることなきに、

ただ念仏のみぞまことにておわします」


大府市S・E氏提供

  

「激震と戦争」

ニュージーランドで222日に地震が発生。南島のクライストチャーチの激震災害は実に悲惨で目を覆いたくなる状況です。マグニチュードの値は6.3で、阪神淡路大地震の7.3より1ポイント低いとのこと。だのに被害が甚大だったのは、阪神大地震の震源の深さが16㎞だったのに対して、今回のニュージーランド地震の震源の深さは4㎞と浅かった。そのためマグニチュードの割に揺れが激しかったと専門家が指摘しています。また、震源が浅いと狭い地域に集中して激震が襲うといわれます。今回そういったことが残念ながら実証されたかたち。

南半球という遠いところで発生した地震であるのに、連日連夜報道で取り上げられています。その要因の一つには、日本人の留学生・研修生がこの災害に巻き込まれたということがあります。彼らの研修施設「キングス・エデュケーション」が入居する市の中心地大聖堂近くに建つ5階建てのCTVビルが崩壊。行方不明になっている二十数名の日本人研修生の多くは倒壊したこの建物中に閉じこめられているのではないか危惧されています。

いずれにしても、被災地は日本から1万数千㎞離れた南半球、ようやく日本からも救助隊が到着しましたが即時的な対応ができないのがもどかしい思いです。しかし、日本のこの地方でも比較的近い時期に、東南海地震あるいは東海地震が発生するといわれていますので、よそ事思わず足下の地震対策や心構えを培っておく必要がありましょう。

かつて古老が、「大地震は50年に一度起こる」といっていましたことを思い出します。そう、私も50年前、否もう60年余になりますか、大地震を経験しています。1944(昭和19)年12月と1945(昭和20)年1月。127日の地震は「東南海地震」、翌年113日の地震は「三河地震」。東海地震のマグニチュードは7.9、三河地震のマグニチュードは6.8だったとのこと。いずれにしても、超大型の地震が1か月余の間に2回も当地方を襲ったわけです。

12月の東南海地震が発生した時、私は小学校2年生。その日は確か水曜日だった記憶。水曜日は半ドンで帰宅して昼食をすませた後、茶の間で宿題をやろうかと机の前に座った時だったと思います。突然襲ってきた激震に母とともにはじかれたように屋外へ。玄関の2本のガラス戸がピシャン、ピシャンと両側の柱で弾かれて往復する合間をすり抜けて外へ。その瞬間のことは今でも鮮明に脳裏に刻まれています。

途中からは走れずに地べたを這いずっていきました。振り返ると通り過ぎた後に高さ3mほどの石灯籠が倒れていました。火袋は粉々になり、擬宝珠は遠くへ飛んでいました。23秒遅かったら私は圧死していたかも…。何十秒経ってか地面の揺れはおさまりましたが、本堂を見上げると依然として揺れ続けています。ギー、ギーと音を立てながら大屋根の軒先が右に左に1メートル余、ゆったりと揺れていた光景を今でもはっきり思い起こすことができます。

同級生が訪ねてきて、初体験した大地震の怖さを興奮気味に話し合った記憶があります。そのあと、下の町筋へ下りて行ってビックリ。鋸形の屋根の工場はペシャンコ。一階がつぶれてその上に二階が居座った商店。倒壊して道路を塞いだ民家。23年前に築造された新しい県道の中央には幅20㎝ほどの亀裂が走り、30㎝ほどの段差も。

こうした災害はわが町のみならず、愛知県内、否、東海地方全域で発生したと思われますが、太平洋戦争まっただ中、報道管制が敷かれ地震災害情報はほとんど明らかにされませんでした。それどころか、「被害は大したことはない」「すぐに復旧できる」といった主旨の、つまり実態とは大きくかけ離れた虚偽の内容の記事が新聞に載ったとのこと。

その後40日足らずの113日、当地方でまたもや大地震が発生。マグニチュード6.8の三河地震。この地震は局地的ながら被害は甚大でした。わが東浦町と境川を隔てて隣接する西三河地方は、真宗大谷派の教勢の盛んなところで当派寺院の密度が高い地域。そうした寺院では本堂等の堂宇もたくさん倒壊。折しも太平洋戦争末期、名古屋都市圏の小学生が敵機の空襲を避けて近郊のお寺などに集団疎開。

現在の高浜市吉浜の正林寺と寿覚寺には、名古屋市瑞穂区の堀田国民学校(現・堀田小学校)の学童が疎開していました。113日未明直下型の三河地震が発生し、両寺とも本堂が倒壊。学童8人、先生や寮母5人計13人が死亡。また、現・西尾市の安楽寺でも本堂が倒壊し、名古屋市中区の大井国民学校(現・大井小学校)の学童8人が犠牲になりました。

この8人の悲劇の裏には痛ましいストーリーがありました。大井小学校の学童達は、最初海部郡の蟹江の方へ集団疎開していました。ところが、近くに誤爆か、B29からの爆弾が着弾。これは危険だということで現・西尾市の安楽寺に再疎開。そこへ三河地震が襲ったのです。駆けつけたある母親は、遺骸を前にして「お母さんと一緒に空襲で死んだ方がましだった」と肩をふるわせたといわれます。

そうそう集団疎開といえば、わが了願寺にも学童が疎開していました。確か1944(昭和19)年の二学期からだったと思いますが、名古屋市南区の道徳国民学校(現・道徳小学校)の三年生の女子学童40人ほどが本堂で起居をともにしていました。賄いのおばさんが煮炊きはしてくれるものの、日常の“家事”はすべて三年生の学童がしなければなりません。

設備が整っていない寺での集団生活は大変なものでした。まずはトイレの問題。もちろん水洗でもなく、浄化槽なんてものもない。ボトン型のくみ取り式。しかも本堂から離れたところに一つだけ。夜になると、「誰かご不浄へ行かない?」と誘っている声が聞こえてきたものです。お墓はすぐ側にあるし、怖かったのでしょう。それにしても、「ご不浄…」などという言葉遣いは、さすが“名古屋衆”?

入浴も大変でした。何せ家庭用の「五右衛門風呂」に、わが家族、教員、寮母を含めると50名ほどが入浴する勘定。学童は一日おきに半数ずつ交替で入浴、ということだったと思いますが、それでも最後の方はお湯がドロドロ。当時、わが地方には水道は敷かれていなかったので、井戸から手押しポンプで汲み上げた水をバケツで何回も運んで給水。もちろんガスもなく薪で湯沸かし。

話が集団疎開に方に流れてしまい恐縮ですが、その疎開学童も東南海・三河の両激震に遭遇しているのです。疎開学童は三学年以上なので、子どもたちは下校前に校内で地震に遭っているのです。揺れの大きい本堂内でなくてよかった、といえましょう。でも、余震の揺れの激しさに驚いてか、学童は二学期終業と同時に当山から撤退して他のお寺に移って行きました。

それから7か月後の1945(昭和20)年の815日、日本は太平洋戦争に惨敗しアメリカを始めとする連合軍の占領下に。そして、日本は激震・激動・激変の時代に突入。今までの教育も、正義感も、価値観も、道徳観も全てひっくり返り、国民は茫然自失。まさに親鸞聖人がおっしゃった

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」

のフレーズがひしひしと感じられることとなりました。                                                    合掌

2011.2.25 住職・本田眞哉・記》

 

  to index