法 話

(122)「語り部不発」 
   



大府市S・E氏提供


語り部不発

 

 311日東北地方を中心とした東日本に発生した激震と津波による被害は未曾有のものとなりました。「東日本大震災」と名付けられ、テレビをはじめ各メディアでは今日に至るまで、連日連夜その惨状が報道されています。

 津波被害を受けた海岸線の総延長は500㎞に及ぶとか。その距離は、身近な感覚で当てはめれば、ほぼ東京―京都間の距離に相当します。改めてその距離の巨大さに驚かされます。その総延長の中に重大な被害を受けたポイント地点が相当数見受けられます。次から次へと映し出される瓦礫の山の市町・地区が数え切れないほど。家屋がもぎ取られ土台だけがむき出しになった光景はなんと空虚なこと。まるで空襲の後のよう。

 また、巨大な船が街の真ん中に置き去りにされたり、2階建てのビルの屋上に座り込んだりする光景にはわが目を疑いました。驚きそのもの。これらの現実は津波の高さとその力の巨大さを実証するものといえましょう。ビルの屋上に“座礁”した船は、モニュメントとして残そうかというご意見もあったようですが、危険だということで立ち消えになったとか。

 このモニュメントとして残す話は、後世に津波の恐ろしさを伝えるという意味では有用かもしれません。“喉元過ぎれば熱さを忘れる”といわれるように、人はとかく年月を経ると自然災害の恐ろしさを忘れてしまいます。先日のテレビ報道で、東北のある地区で「此処より低い地区で住まないように」といった旨の文字が刻まれた苔むした碑を映し出していました。その碑文が教訓になって当該地区では津波による被害は僅少だったとも。

 身近に起こった過去の自然災害としては、1959(昭和34)年926日に襲来した伊勢湾台風が思い起こされます。未曾有の巨大勢力のまま上陸した台風は甚大な被害をもたらしました。当地は伊勢湾の中の衣浦湾の最奥に位置していますので、猛烈な高潮が襲来。当山の隣にある「入海貝塚(縄文早期)」の足下まで津波は到達しました。まるで6000年前の海岸線を再現したよう。

 湾奥(河口)のわが地区では高潮は3mほどの高さまで押し寄せ、かなり多くの家屋が破壊され流されました。しかし、50年余を経た今日では、流された家よりさらに河口近くに開発された住宅地に、百戸近くの住宅が建ち並び数百人の人々が居住しています。50年前と同じように自然の猛威が襲ってくるならば住宅はひとたまりもありますまい。一つ間違えれば何人かの人の命が奪われることでしょう。果たして過去の教訓が生かされているでしょうか。

 私自身は、伊勢湾台風のみならず1944(昭和19)年127日の東南海地震、そして40数日後の1945(昭和20)年113日に発生した三河地震も経験しています。東南海地震はM7.9、三河地震はM6.8の大規模地震でしたが、これらが連続発生。こうした地震や台風災害の被災経験者がだんだん少なくなってきて、被災の実態も風化しつつあることは否めない事実です。

 そこで、そうしたことを知らない世代の若者に、自然災害の恐ろしさや災害への対処についてレクチャをしてほしいとの依頼が、今年3月のはじめに私の許へ舞い込みました。経験談を交えて災害への心構えを、地元の学校の子どもたちに話してほしいとのことでした。次世代への災害教育の一助になれば…とレクチャの依頼を受諾しました。以後、レクチャのポイントを絞り込み資料の収集に取りかかった矢先、3.11東北地方に大地震が発生。

大津波によって流される家また家、街の真ん中へ流れ込む巨大船舶等々の惨状が“生中継”されるに及んでわが目を疑いました。以後連日連夜長時間の災害地報道に度肝を抜かれた思い。子どもたちも同様にテレビを視ているはず。となると、このど迫力の映像が脳裏に残る子どもたちに対して、私のレクチャがどれだけのインパクトを与えることができるのか。乏しい資料と“口述”だけで5065年前の経験を話す自身を喪失しました。そこで学校の先生には出講を辞退させていただくようお願いしお許しを得ました。最後になりましたが、今回の大震災で犠牲になられた方々にはお悔やみ申し上げますとともに、被災されたみなさまには心からお見舞い申し上げます。

 まずは語り部不発のお粗末、失礼しました。

合掌

2011.5.3 前住職・本田眞哉・記》

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