法 話

(125)大乗菩薩道(だいじょうぼさつどう) 
   


   

大府市S・E氏提供


大乗菩薩道(だいじょうぼさつどう)

  

 去る729日付けの『中日新聞』夕刊に、「文化」に関わる内容の読み物6編載っていました。全14ページ建ての紙面に6編とは驚きです。もちろん記事の内容面では相互に関連はありませんが、私の独断と偏見で「文化」的な内容という面で共通しているなと思って取り上げてみました。記事は、いわゆる「文化」欄に載っているものもあれば、「社会」面所載もあり、「旅」のページや「人物」コーナーで取り上げられているケースもあり、といった塩梅。

因みに、記事のタイトルと見出しを列挙してみますと、以下の通り。①「黄金文化復興の光に」というメイン・タイトルで、世界文化遺産に登録されたみちのく岩手県の「平泉」への「旅」を紹介する記事。②「『世界の神髄をるために』  いま「時代小説」を書く理由」と題して、作家・辻井南青紀氏が「文化」欄に執筆した随想。中見出しは「過去に肉薄、切り結ぶ」。③連載「熊野 魂のゆりかご」12の「『高木顕明が見据えた未来』平和、平等 訴え続け…」。高木顕明(けんみょう)師は、和歌山県新宮市の真宗大谷派淨泉寺の住職。被差別部落の人々や貧困にあえぐ人々を救い平等社会の実現に献身。

④「あの人に迫る」欄では言語学者・金田一秀穂氏が登場。金田一秀穂氏は言語学一家の第三世。タイトルは「言葉がなかった15万年間に関心」。秀穂氏は言葉のない世界で、言葉が生まれたことによって何が変わったのか見てみたいとのこと。それには仏教が一番近いとも。釈迦とか禅とか…。⑤「社会」面で取り上げられた記事のメイン・タイトルは「炭鉱画刷新し復刊」。サブタイトルは「山本作兵衛の作品」「記憶遺産登録受け新装版」。福岡・筑豊出身の絵師山本作兵衛の炭鉱画がユネスコの記憶遺産に登録されたことを受け、講談社が画文集を新装版で復刊。

3ページの「総合」面には、思わず「オーッ」と声を上げる記事がありました。「中部発」のロゴと「千畝の心 宿る8点」「『命のビザ』複製展示」の見出し。第二次大戦中、故杉原千畝駐リトアニア領事代理が、ユダヤ人難民に発給した「命のビザ」の複製などを展示する特別展が、福井県敦賀市金ヶ崎町の「人道の港 敦賀ムゼウム」で開かれている、との囲み記事。

以上「文化」に関わる内容の“読み物”6編を同一日付の夕刊紙からピック・アップしましたが、最後の「千畝の心…」の記事は、ボリュームはそれほど大きくありませんでしたが、私の目を惹きつけました。特別展は94日まで開催されているとのことですので、一度訪れてみたいと思っています。といいますのは、一昨年の夏にリトアニアはカウナスの杉原記念館を訪れたことを思い出し、「命のビザ」に残された千畝氏のペンの跡に再会してみたいと思ったからです。

そう、私が会長を務めるアジア文化交流センターは20098月、研修旅行でリトアニアを訪れました。この旅行は「ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅」シリーズのPart IVとして企画。ツアー名は「杉原千畝氏『6.000人の命のビザ』ゆかりの地を訪ねて」。824日、私たちを乗せたチャーター・バスは首都ビリニュスからリトアニア第2の都市カウナスに入ります。バスは住宅街にある杉原記念館に到着

杉原記念館はごく普通の一戸建ての住宅。気を付けていないと通り過ぎてしまいます。軒下の右端の外壁に書かれた住宅番号「30」と同じく左端に掲げられた「杉原記念館・入り口」の小さな看板、そして門柱に掲げられた「希望の門 命のヴィザ」の切り抜き文字があるステンレス看板がポイント。聞くところによればこの住宅、かつては文部大臣の邸宅だったとか。記念館の入り口は、正面玄関ではなく、向かって左側の緩やかな坂を下ったところにありました。

入館するとすぐにビデオが上映されました。冒頭画面に「葦のようにしなやかに」が映し出され、続いて「木のように堅くなるな」のフレーズが画面に浮かび上がります。ナレーションは「これはイスラエルのことわざの一節である。日本のことわざで言えば『柔よく剛を制す』である。それはまさに杉原千畝の生き方そのものであった」と解説していました。そしてその後に「正義の人 杉原千畝」のメイン・タイトル。

続いてカウナスで暮らす千畝氏家族の平和な姿、今から60年以上前の様子が映写されました。子どもさんの無邪気な振る舞いから公務に至るまで、おそらく16㎜フィルムでしょうが動画で収録されていました。もちろんモノクロームでしたが、あの年代でホーム・ムービーを撮ること自体なかなかできないことですし、“敗残兵”のような形でロシア経由の帰国という苛酷な状況の中、よくもフィルムを持ち帰れたものだと感心せざるを得ません。

さて、ビデオ画面は進み1940(昭和15)年718日早朝、ユダヤ人がビザ発給を求めて、領事館のフェンス越しに手にした書類を振りかざす場面へ。続いて本国政府の訓令に反してビザを発給すべきか否か、心の葛藤に悩む杉原夫妻。ご令閨の「保身よりも人命救助を」の言葉を受けて発給を決断。そして、他の国へ逃れるため日本通過のビザ発給を求めて押し寄せたオランダ国籍のユダヤ人に、ビザ発行の作業が始まりました。

杉原領事代理は毎日まいにちビザを書き続け、スタンプを押し続けました。画面には、手書きのペンがクローズ・アップされ、スピーカーからは紙の上を走るペンの音がザッザッザッと聞こえてきます。そして、バック・グラウンドには「ユダヤ人のためにビザを発行しようと、一旦決心した杉原千畝の心にはもう迷いの陰はなかった。毎日まいにち領事館に押し寄せるユダヤ人に日本の通過ビザを発行し続けた。そしてビザを渡す時に、ユダヤ人一人ひとりに『バンザイ ニッポン』と言わせたのである。彼らの自分への感謝が祖国日本への感謝に繋がってくれることを杉原千畝は期待したのである」とのナレーション。

さらに、「来る日も来る日も、彼はビザを書き続ける。10日経っても20日経っても、領事館にやってくるユダヤ人の数は減らなかった。杉原千畝はこうしたビザを1,600、大人のビザしか発行しなかった。子どもは大人が連れて行けばよいと考えていたからである。こうして日本に渡り、無事に救われたユダヤ人の数は6,000人にのぼった」と、ナレーションは続きました。リトアニアがソ連に併合されたため領事館を閉鎖し撤退せざるを得なくなりましたが、95日次の任地ベルリンへ出発する直前の列車の中でもビザを書き続けたといわれます。

その後案内された展示室には、記録写真や貴重な資料・書籍等が展示されていました。遺影や遺品、日本に帰り着くまでの地図等々も展示されていました。特に印象に残ったのはタイプライターと杉原千畝領事代理の執務室。タイプライターは黒色のどっしりしたタイプ。今のパソコンや少し前のワープロと違って重量感があり懐かしいフォルム。今にもタイピングの音が聞こえてくるようです。執務室は意外と狭く、質素。5×4ほどでしょうか。壁には日章旗が掲げられ、その前には幅2mほどの机がどっしりと存在感豊かに設えられていました。この机の上で杉原領事代理が6,000人の命を救ったビザを書いたと思うと感慨一入。

ところで杉原千畝氏の生い立ちといえば、190011日父好水氏と母やつさんの次男として岐阜県の八百津町で出生。そのご縁で、八百津町には「人道の丘公園」が創設され、同園内に「杉原記念館」があります。千畝生誕100周年を記念して建設され、2000730日オープン。私が会長を務めるアジア文化交流センターも、バルト三国の研修旅行の事前研修を兼ねて、20096月に八百津の杉原記念館を訪れて学習しました。

八百津町で幼・少年時代を過ごし、その後税務署員である父親の仕事の関係で名古屋市へ移住。1912年名古屋市立古渡尋常小学校を「全甲」の最優秀成績で卒業。そして愛知県立第五中学校(現・瑞陵高等学校)に進学。私たち愛知県人とは非常にご縁が深い。1917年同校を卒業後、朝鮮総督府財政部に出向中の父の希望で京城医学専門学校を受験するが白紙答案を出してわざと不合格に。

1918年早稲田大学高等師範部英語科に入学したものの、翌年外務省留学生試験に合格して大学を中退。外務省ロシア語留学生としてハルピンに留学。1924年には外務省書記生として採用されました。同年2月には満州里在勤を命じられ、陸軍歩兵少尉に任官されています。同じく12月にはハルピン在勤を命じられており、この年千畝氏の外交官生活がスタートしています。偉大な外交官の淵源はここにあったのです。

帰りしな、記念館前で2本の門柱を取り囲んで記念撮影。門柱には前述のように切り抜き文字が施されたステンレス板が取り付けられていました。向かって左の門柱には「希望の門 命のヴィザ」の文字が明朝体で著されています。向かって右側の門柱には、VILTIES VARTAI VIZOS GYVENIMUIと記されていました。これはおそらくリトアニア語による標記でしょう。

杉原氏の世界的・人道的な功績は、終戦時のドサクサということもあってか、余り人口に膾炙しておりません。本国の訓令に反して、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人にビザを発給した杉原千畝氏の勇気が6,000人の命を救ったのです。これほど偉大な人道的快挙は世界の歴史の中でも比類のないことでしょう。仏教的見地からすれば、まさに「大乗菩薩道」の実践に他ならないと思います。

合掌

2011.8.2 前住職・本田眞哉・記》

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