法 話

(127)余道に(つか)うることを得ざれ   


  悲しきかなや道俗の

  良時吉日えらばしめ

  天神地祇をあがめつつ

  卜占祭祀つとめとす



大府市S・E氏提供
               親鸞聖人・作『愚禿悲嘆述懐和讃』

余道に(つか)うることを得ざれ




 秋のお彼岸も過ぎ、朝晩は風の冷たさを感じる時節となりました。「お彼岸」といえば、春秋ともにお墓参りとかお寺参りが思い起こされ、マスコミなどもニュースの一端に取り上げます。当山ではご案内のとおり、毎年秋のお彼岸には「永代経」法要を勤修しております。本年も9月23日のお彼岸のお中日(秋分の日)にお勤めしました。午前・午後合わせて100余名の方々が参詣されました。

 「彼岸」の元々の語形は「到彼岸」で、意味は「彼岸に到る」。梵語の「波羅蜜多(パーラミタ)」の訳語です。此岸(苦悩の世界)から彼岸(悟りの世界)へ到るご縁をいただく時節がお彼岸ですが、インドはもちろん中国・韓国等にもない日本特有の催事。日本的な意味づけの仏教行事がお中日を中心に前後3日、計7日間に執り行われます。また、秋分の日と春分の日は、昼と夜の時間が同じで、太陽が真東から昇り真西に沈むことから仏教の「中道」のお教えに合致しているうえに、西方浄土への往生を願う思想とピッタリ。

 そのお彼岸も26日の「果て岸」で終わり10月を迎えました。10月は「神無月」。日本国中の神々が出雲の国に集まり、地方には神がいなくなるため10月を「神無月」というのだそうです。日本では、神々への信仰が古代から現代に至るまで連綿と続いています。神々への信仰は、いわば日本人の民族的宗教といってもよろしいかと思います。

 明治時代に政府が行った1868(明治元)年の神仏分離令など祭政一致をスローガンとする神道国教化政策、神仏分離政策によって「廃仏毀釈」の運動が起こり、神仏分離・仏教排斥の嵐が全国的に吹き荒れました。国学者平田篤胤の学説に裏打ちされた神道思想、いわゆる平田神道がその影響力を拡大していきました。寺院・仏像の破壊や経典の焼却も行われました。

 当時は神仏習合寺院・神社が数多ありましたが、神仏分離と言いながら本音は仏教を潰そうという方向を目指していました。他宗派ではそうした騒動による被害が甚大でしたが、我が浄土真宗においては、親鸞聖人の教えに基づいてもともと神祇との交渉が無かったため直接的に破却を受けたケースは殆どありませんでした。

 ただ、藩政から転換期の行政官等の方針によって、宗教政策が異なっていた面もあり藩によっては混乱が生じたところもありました。「大浜騒動」といわれる三河で起きた護法一揆がその一例です。三河大浜支庁に上総国菊間藩の服部純少参事が赴任し、明治政府の方針に従い村法の改正や勤王主義教育、神仏分離などの宗教改革を実施。施策は、寺を統廃合したり天拝日拝を強制したりするなど廃仏的な内容だったようです。

服部純少参事は、宗教改革の一環である寺院の合併について10か条の質問をしました。その中から例を2~3挙げますと以下のようです。

・ 檀家の無い寺院は、古い新しいを問わず他の寺院に合併することにしたらどうか。

・ 檀家の少ない寺院については、10軒以下、50軒以下、100軒以下のいずれかをもって、他の寺院と合併したらどうか。

・ 居村に檀家が無く他村に檀家の多い寺院は、最寄りの寺院に合併したらどうか。

これに対して真宗大谷派の専修坊・星川法沢、蓮泉寺・石川台嶺両師らが中心となって反対運動を起こしました。1871(明治4)年3月8日連判血誓した僧侶達が大浜に向かって請願に出発。少参事の村法の改正などに反発していた門徒農民もこれに同調して加わり、「一揆」の様相を呈することになりました。

龍讃寺の竹を使って高張提灯を作る門徒の中に竹槍を作る者が現れ、他の門徒もこれを真似し、ほぼ全員が竹槍を携えるに至りました。そうしたこともあってこの騒動、藩兵に鎮圧され、首謀者と目された石川台嶺師が斬罪となったのをはじめ、僧侶31人、門徒9人が有罪となりました。かくして「菊間藩一揆」と呼ばれる大浜騒動は後味の悪い結末となりました。

こうした騒動発生の根源には、神道を国政に利用する国家神道の流れがありました。その流れは明治元年に発せられた「太政官布告神仏分離令」に始まり、1945(昭和20)年8月の太平洋戦争終戦に至るまで連綿と続きました。私が国民学校(小学校)2年生のころ、太平洋戦争の暗雲が低く垂れ込めるなか、「隣保班」を通じて国からの神祇の強制があったことを思い出します。

「神祇不拝」を根本教義とする真宗寺院においては、神棚を祀る必要はありません。我が了願寺でも開基以来500年に垂んとする歴史のなかでもその前例はありません。ところが、1943(昭和18)年の年末か1944(昭和19)年の始めか記憶が定かではありませんが、隣保班の班長と在郷軍人らしき人がやって来て、神棚を設えてお神札を祀るようにと威圧的に言い渡されました。

私の父親である住職は1931(昭和16)年に病死しており、当時は母親である「坊守」が実質的に法務を執って文字通り寺(坊)を守っていました。当時、「女」が“お上の命令”に対して抗弁することなどさらさらできず、不本意ながら神棚を置かざるを得ない結果となりました。もちろん、終戦と同時に神棚は撤去し真宗寺院本来の姿が回復されました。

神々への信仰は、古代から現代に至るまで続く日本の民族的宗教といえましょう。戦前・戦中には、その信仰を土壌として国家神道が創建され、戦意高揚の役割を担いました。このような神祇信仰と大陸から伝来してきた仏教が「神仏習合」という独特な形態をとって今日に至っているのです。

しかし、浄土真宗では「神祇不拝」「神祇不帰」を教義の根本精神としております。親鸞聖人は『教行信証』「化身土巻」に、神祇を頼る人たちを嘆いて次のように記していらっしゃいます。まず『涅槃経』を引用して、「仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ」と。続いて『般舟三昧経』にある次の文言が引用されています。

  余道に事うることを得ざれ

  天を拝することを得ざれ

  鬼神を祠ることを得ざれ

  吉良日を視ることを得ざれ

 まさに神祇不拝そのものズバリです。ただ、ここで気をつけなければならないことは、「得ざれ」の文言。これは「~するな」という禁止の命令句ではありません。「~する必要のない身となれ」といったらよろしいか、あくまでも自覚した上での心身の用(はたら)きが求められているということでしょう。他律的な心身の動きであるならばそれは「目覚め」ではなく一時的な心身作用で、気分が変われば元の木阿弥となってしまうでしょう。

 いずれにしても、仏の教えに帰依するならば、仏に対する堅い信心があるならば、天の神を信じ地の神に祈りを捧げたり、善鬼神に頼ったり悪鬼神を畏れたり、日柄・方位の祟りを恐れる必要が無くなるとお教えいただくのです。

 とはいうものの、日常生活のなかで不本意な状況に陥ると、人間は吉凶禍福を左右する「神」を立て、その人間の外にあってその人間を支配する神に帰依することになってしまいがちです。そういう結果を招く根本に何があるかといえば、それは自分の欲望。戦勝祈願、病気平癒、五穀豊穣、家内安全、延命長寿等々一見きれいな言葉に聞こえますが、内実は欲望を満たそうとする心が、そのままよろずの仏・菩薩・神への信仰の形となっていくのでしょう。その意味では、神仏は人間の欲望が外に現れた姿ともいえましょう。

 しかし、こうした信仰態度は果たして本来の仏道といえるでしょうか。いうまでもなく「否」です。聖人の教えでは、苦悩している状態から何とかして抜け出そうという発想の延長線上に神仏を拝むのではなく、拝むことによって苦悩の実態を掘り下げてその病根を掴みだし、仏智に照らされることによって苦悩のメカニズムが明らかになってくるのです。苦しみの仕組みが明らかになることに依って、苦しみが苦しみの形を失って受け入れることができるようになる、とお教えいただくのです。

合 掌

2011.10.2 前住職・本田眞哉・記》


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