法 話

(129)山陰・山陽の窯元を訪ねて

   


  


大府市S・E氏提供
              

山陰・山陽の窯元を訪ねて

 

 私が会長職をお預かりしているアジア文化交流センターでは、毎年1回研修旅行を企画実施しております。そもそも「アジア文化交流センター」とは何ものぞ? といぶかる向きもおありかと思いますので、その“素性”についていささか記してみたいと思います。前身は「ボロブドゥール修復支援会」。更にその淵源を尋ねると「同朋学園国際文化研究会」が母体。1976(昭和51)年、同朋学園国際文化研究会が仏跡・ボロブドゥールの踏査研究に赴いたことが発端でした。折から仏跡・ボロブドゥールの修復事業活動をユネスコが主導して世界規模で展開していました。

現地踏査を終えて、同朋学園国際文化研究会は「ボロブドゥール修復支援会」を立ち上げ、ボロブドゥールの修復支援に乗り出すことになりました。各地で展示会や講演会を開催して修復支援のための募金活動を展開しました。更にマスコミにも取り上げていただき一大キャンペーンを張りました。当時の宇治谷祐顕会長(故人)の強力なリーダーシップのもと活動は大きな盛り上がりを見せ、大きな反響を呼びました。

更に募金活動を一層拡大するために、会員の提案で現地踏査の寄付金付きツアーを企画することになりました。格安料金で参加していただけるようにボーイング707機をチャーターしてピストン運行することとし、大々的に団員募集をしました。1979(昭和54)年7月12日名古屋空港発の第1号機から同年7月26日出発の第4号機まで、全機満席600余名の参加者を得て企画は大成功でした。ツアー料金付加の寄付金6,180,000円の修復支援金をユネスコ・アジア文化センターへ納入することができました。

ユネスコによる仏跡・ボロブドゥール修復事業も1982年(昭和57)年竣工の運びとなりましたが、わがボロブドゥール修復支援会からは前述のツアー募金も含めて総合計35,000米ドル(当時のレートで10,200,000円)の寄付をしました。1984(昭和59)年2月23日に執り行われた修復完工記念式典に、日本からはわが支援会が唯一の民間団体として招待を受け、宇治谷会長が出席。かくしてボロブドゥール修復支援会もその使命を終えたことから、同会を発展的に解消して「アジア文化交流センター」に衣替えすることになりました。

以後、アジア文化交流センターでは、アジア地域との文化交流・親善交流の活動を展開。現地のマスコミにもたびたび大きく取り上げられました。ここ数年は、「ヨーロッパに“アジア”を尋ねる」をテーマとして交流・研修の旅を企画実施して参りました。ただ、2011(平成23)年度は東日本大震災及び福島第1原子力発電所の事故を受けて海外研修は自粛し国内研修に切り替えました。10月24日から26日までの2泊3日の旅程で、山陰・山陽の窯元を訪ねるとともに、特別史跡や文化遺産を見学し研修しました。以下、その概要を記すこととします。

閑谷しずたに学校
 10月24日、JR岡山駅から貸し切りバスで最初に訪れたのは岡山県備前市にある閑谷学校。愛知県人には余り知られていないかと思いますが、私は教育委員を勤めていたころに訪れて初めて知りました。江戸時代前期に岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校。建築に32年の月日を費やした木造建築群は、他に例を見ない手間暇かけた質とスケールを誇っています。地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育しました。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができたとのこと。330年余りの歴史を持つ講堂は国宝。他の建造物も重要文化財に指定されており、校地は特別史跡。

小泉八雲記念館
 岡山県美作市にある食事処「西の屋」で昼食をすませてバスに揺られること2時間余り、島根県は松江市にある小泉記念館に到着。記念館は角地に築地塀を巡らした広い敷地に建てられた和風建築。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はアイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれましたが、複雑な家庭事情もあって19歳で単身アメリカへ。赤貧の生活を経て、ジャーナリストとして活躍し39歳の時特派員として来日。その後、島根尋常中学校及び師範学校の英語教師となりました。45歳の時セツと結婚し日本に帰化。館内には彼の遺品が沢山展示されていました。直筆原稿や書簡、遺品や著作図書等々。

楽山焼窯元「楽山窯」
 10月25日朝、宿泊ホテル玉造温泉の「華翠苑皆美」から松江市街地を抜け、松江城天守閣を車窓から眺めてバスで走ること30分、楽山焼の窯元「楽山窯」に到着。バスを降りてから道順が分からず右往左往していると、楽山窯の方が迎えにいらっしゃいました。案内された小高い丘の上にある数寄屋風の展示場兼即売場にはすばらしい作品が並んでいました。さすが松江藩のご用窯、品格も高くお値段も高い?ことでしょうが、値札がついていないので手も足も出ないといったところでしょうか。十一代長岡住右衛門空権陶主が自らご説明いただき恐縮。その後窯場を見学して記念撮影。

石見いわみ銀山遺跡
 松江城を後にしてバスは国道9号線をひた走り、島根県大田市の世界文化遺産「石見銀山遺跡」に到着」。腹ごしらえをして全行程徒歩4.6㎞コースに挑戦。先ずは「下河原吹屋(製錬所)跡」を見学。空はどんより曇っていますが雨は落ちてきません。暑くも無く寒くも無く、つま先上がりの道をただひたすら歩き続けます。30分ほど歩いたころでしょうか道ばたに「新切間歩」の石碑。「
間歩(まぶ)」とは坑道のこと。我々が目指すのは「龍源寺間歩」。20分ほど歩いて到着。間歩入り口で記念撮影。坑道に入ってみると意外に広い。しかししばらく進むと狭くなり、天井も低く頭を下げなければなりません。いずれにしてもこうしたところで鉱石を掘り続けた先人達の苦労が忍ばれ、頭が下がる思い。

萩焼窯元 
旅の最終日は萩・津和野の旅。JR山陰本線東萩駅近くの宿「常茂恵」を後にして、まずは萩焼窯元・野坂江月窯へ。玉江駅近くの無人踏切を渡ったところに名門・野坂江月窯はありました。植え込みの中に建つ「江月窯」と記した自然木の立て看板が素朴な雰囲気を呈しています。高麗茶碗の伝統的な技法で、力強い造形と質感が特徴の「伊羅保」は野坂氏が確立したものとか。「伊羅保の野坂」と称されるほどにその技は素晴らしいようです。登り窯の窯場を見学した後作品展示売店へという定番コース。お値打ちに買い物ができたメンバーもいたとか。

松下しょうか村塾そんじゅく 
 バスは萩市の中心部を通り抜け20分ほどで吉田松陰を祀る「松陰神社」に到着。吉田松陰は1830(天保元)年に長州藩士杉百合之助の次男としてこの地で誕生。6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けました。後に松陰自身もこの塾で講義をし、身分や階級にとらわれない教育を行ったとのこと。境内にはその「松下村塾」がありました。塾は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳の一室と、後に杉家の母屋を増築した十畳半の部分からなっていました。高杉晋作、伊藤博文等明治維新の原動力となった逸材を輩出しました。にも拘わらず、晋作先生が幽囚の身となった部屋も。

森鴎外旧宅
 バスは萩市から「山陰の小京都」津和野町へ。先ずは明治の文豪・森鴎外が幼少期を過ごした旧宅を見学。森鴎外は1862(文久2)年1月19日に津和野町町田で誕生。1881(明治14)年東京帝国大学医学部を卒業し軍医の道へ。1884(明治17)年~1888(明治21)年ドイツへ留学。帰国後、医学界・文学界の改新のために発言。『即興詩人』の翻訳は鴎外の名声を高めました。日清・日露両戦争に従軍。一方、1909(明治42)年に雑誌『スバル』を創刊し創作活動を活発にしました。その後、幾多の作品を世に出し明治文壇に確固たる地位を築きました。旧宅は静かな住宅街の一角に瀟洒な佇まいを見せていました。建物の周囲を一巡して開放された室内を拝見、往時の文豪の暮らし向きを垣間見ることができました。

津和野殿町 
直近の「道の駅・鴎外村ふる里」で昼食を済ませて殿町通り散策へ。津和野は明治維新前には津和野藩亀井氏の城下町であり、山間の小さな盆地に広がる町こぢんまりした町。その中心部にある殿町通りは長さ約1㎞。なまこ壁と町家、立派な門構えの武家屋敷がモノクロ・トーンの街並みを描き出しています。そして、その下のお堀には清水が流れ、堀の中にはゆったりと泳ぐ錦鯉や真鯉。街路樹の銀杏も色づいて青空に映え、散策にはもってこいの街並み。津和野大橋の近くには鷺舞のモニュメントもありました。
                       

合 掌

今回は随筆にて失礼 2011.12.2 前住職・本田眞哉・記


  to index