法 話

(13)「至心に回向したまえり」

先日地元の「保健センター運営会議」に出席する機会がありました。会議のメンバーは、所管の保健所長、町当局および議会の代表、医師会・歯科医師会・薬剤師会の代表、そして各種団体の代表がそれに加わるという構成で、総勢20名ほど。私は教育委員の代表ということで参加させていただきました。

最初に保健センターの事務方より、平成13年度実施事業の概要について説明があり質疑に入りました。実施事業の内容は実に多岐にわたり、町民の保健・健康増進のためにきめ細かく取り組んでいる状況が資料で示されました。母子手帳交付から始まって介護保険事業と境を接するところまで、検診・講座・啓発活動…と年代別・性別・地域別にプログラムがビッシリ。

出席者からの質問が飛び交うなか、気になる表現がありました。「最近日本人の出生率が低くなっているということですが、本町のここ23年の出生率はどんな状況ですか」とある委員が質問。これに答えて、事務方からは「本町の出生率は…」と説明。気になったのは「出生率」の読み方。質問者は「しゅっせいりつ」と読んでいました。2回、3回と重ねて。一方、事務方は「しゅっしょうりつ」と正しく発音していました。

この委員会に限らず、他の公式な会合や放送メディアなどでも「出生」を「しゅっせい」と発音している例を耳にします。日本語の「揺れ」が指摘されるなか、私は「しゅっしょう」が正しい読み方と確信していました。念のため辞書をひもといてみたところ、ほとんどの辞書は、「しゅっせい【出生】→しゅっしょう」となっていました。ところが、ある辞書では「しゅっしょう【出生】」の方に   「読み方シュッセイとも」との付記。エッ? 

 では、現に入力しているこのソフトの辞書(ATOK14)ではどうでしょう。スペルチェックを試みましたが、「しゅっせいりつ」への反応はありません。となると、最近は「しゅっせいりつ」も容認されるのかな? 日本語の「揺れ」のみならず、私の確信も「揺れ」始めました。

ところで「揺れ」とはいったい何なのでしょう。三省堂の『辞林21』には次のように書かれています。
   
  ゆれ【揺れ】@(省略) Aある語が同一時期に、語形・発音
    ・アクセント・語法・表記などの面で、二つの形あるいは言い
    方が共存して用いられている現象。例えば、「にほん」と「に
    っぽん」、「フィルム」と「フイルム」、「十分」と「充分」
    「様子」と「容子」などの類。

一方、集英社発行の『imidas』には、「ことばの揺れ」について
       ことばが変化し、規範が揺れること。ことばは常に変化する。
    その過程でさまざまな規範が揺れ動く。日本語では敬語の変化
    にそれが見られる。

と書かれています。そして、敬語体系の「乱れ」を例に挙げています。

この両者の解説の間には微妙な差異があるようですが、基本的には「規範」の問題。「規範」からはずれたことばの「乱れ」が「揺れ」を生じ、その「揺れ」が今度は「規範」を揺らせ、ことばを「変化」させていく。そして、最終的にはその「変化」が「規範」を変えていくのでしょう。

ことばは社会を映す鏡であるといわれているように、時代とともに変化します。江戸時代のことばで、現在「死語」になっている例はいくつかありましょう。また、「ら抜き」の「来れますか」や「犬にごはんををあげる」とか「明日は休まさせていただきます」という表現が容認され、いずれ気にならない時代が来るかも。

先日聞いたラジオ番組でも、日本語の「乱れ」や「揺れ」はある程度許容され、時の流れとともに「変化」となって定着していくと結論づけていました。ことばはやはり時代とともに変化し、同時に新しい意味を醸し出し、大げさにいえば新しい文化と新たなる価値観を生みだすとともに、人生のダイナミズムを喚起することになりましょう。

いささか論理が飛躍してしまったようですが、現実にその例があるのです。それは、わが宗祖・親鸞聖人が真実の教えに出遇われ、人生の一大転換をされた時のキーワードです。

親鸞聖人の開顕された本願念仏の教えは、釈尊の説かれた『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』を正依(しょうえ)の経典としています。その『仏説無量寿経』に説かれている眼目は如来の本願であります。ここで詳しいことを記す余裕はありませんが、その本願とは四十八の誓願であり、経典にはそれぞれの願の内容が説かれています。

中国の善導大師から日本の源信僧都、そして法然上人に至る浄土教の伝統の中で、四十八願は最も重要視されてきました。この流れを受けた親鸞聖人は、第十八の願(念仏往生の願・至心信楽(ししんしんぎょう)の願)を煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫が救われる究極の本願であるとして特に重んじられました。したがって、第十八願を古来本願の王様「王本願」とも呼んできました。

四十八願には、それぞれ「願文」と「成就(じょうじゅ)の文」がありますが、私がいまここで取り上げたいのは「第十八願成就の文」。漢訳経典には、
      諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向
      願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法

と記されています。

 この文を一般的に読むと、「もろもろの衆生、其の名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念し、至心に回向し、彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得て不退転に住す。ただ、五逆と正法を誹謗するものを除く。ということになります。

 ところが、親鸞聖人は独特な読み方をされました。もろもろの衆生、其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまえり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得て不退転に住す。ただ、五逆と正法を誹謗するものを除く。」

 前者の場合は、「あらゆる衆生が仏の名号(南無阿弥陀仏)を聞くことによって、信心がおこり喜びがあふれ、思わず南無阿弥陀仏と念仏が出る、その心をさし向けて生まれようと願えば浄土に生まれることができる。(後略)」という意味になります。

 これに対して親鸞聖人は、「あらゆる衆生が仏の名号(南無阿弥陀仏)を聞くことによって、信心がおこり喜びがあふれ、思わず南無阿弥陀仏と念仏が出る、そのすべての過程は、阿弥陀如来の真心が私にさし向けられてそうなったのであって、もちろん浄土に生まれるのもすべて如来のお力によるものである。」とされたのであります。

 ポイントは、「至心に回向し…」と「至心に回向したまえり」の違い。前者は自分の努力の心を仏にさし向けることでありますが、親鸞聖人においては、如来の方から仏の真実心が私の方へさし向けられるということで、方向は全く逆。「至心に回向したまえり」という読み方は親鸞聖人のオリジナリティーであります。

この読み方は、善導大師から源信僧都、法然上人に至る浄土教の流れ中で、当時としては伝統をぶち破る暴挙であったかも知れません。しかし、これは単なることばの「揺れ」や「乱れ」ではなく、この読みかえこそ親鸞聖人の絶対他力思想の真髄であります。私の口が念仏を称えるのも私の力ではない、如来の働きによるものであって私自身は全く無力である。否、むしろ、努力したり善行を積んだりする行為は、浄土に生まれるためには邪魔になるのだ、と親鸞聖人はおっしゃっています。

かくして、親鸞聖人は「不回向の法」の世界を開顕し、法然上人を善知識(師匠)と仰ぎつつも百尺竿頭一歩進めたと、いわれるのも宜なるかなといえましょう。親鸞思想のダイナミズムの出発点もここにあるのだと思います。

 親鸞聖人のケースは、ことばの「揺れ」や「変化」とは似て非なる事例かも知れませんが、筆を進める間に私の頭の中にひらめいた“よしなしごと”を思いのまま記したにすぎません。ふざけた「法話」になってしまったかも知れませんが、お赦しください。 合掌。
   2002.4.3.住職・本田眞哉・記】

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