法 話

(133)会長職を辞して

 

   同一に念仏して

   別の道なきがゆえに

   遠く通ずるに、

   それ四海の内みな兄弟とするなり



大府市S・E氏提供
     
 ―曇鸞大師の『浄土論註』より―       

 
 

会長職を辞して

 

 

 「アジア文化交流センター」は名古屋を中心に活動している任意団体。その会長職を私が勤めさせていただいておりましたが、昨年末をもって辞任させていただきました。前任の会長・宇治谷祐顕先生亡きあとを受けて、不肖私が会長職をお預かりすることになったのです。先生が還淨されたのは1999(平成11)年9月7日。月日の経つのは速いもので、あっという間に12年間が過ぎ去りました。

 宇治谷祐顕前会長の学術面での功績の偉大さはいうまでもありませんが、それを礎として展開された国際文化交流活動は大変ユニーク。その残された数々の業績は絶大でありますが、その最たるものがインドネシアはジャワ島の仏教遺跡・ボロブドゥールの修復支援活動でしょう。

 思い返せば今から36年前、初めてボロブドゥールの実地調査に赴いたのが発端でした。石組みが崩れ、首のない仏像が今にも倒れそうになっている姿を見て先生はじめ団員一同胸が痛みました。仏教徒として、この大乗仏教遺跡の崩壊を見過ごすわけにはいかないと、団員一同固い決意のもと、帰国後ただちに「ボロブゥドール修復支援会」を結成し草の根の募金活動を開始しました。

 募金活動は時には困難に直面しましたが、矢継ぎ早に企画を打ち出し募財活動のキャンペーンを展開。B707を4機チャーターしての寄付金付き現地踏査ツアーを企画実施し、ついに目標額を達成。そして1979(昭和54)年7月14日、ボロブドゥール演壇上で、ボロブドゥール修復公団のスビヤントロ氏に3万5,000ドル(当時のレートで約2,000万円)の寄贈目録を手渡すことができました。鐘形スツゥーパを背景にして感動の面持ちの先生の笑顔が今でも私の脳裏を離れません。

それにもまして感動的だったのは、ボロブドゥール修復完工記念祝賀式典に招待されて先生が参列されたことでしょう。私にも同行のお声がかかりましたが、法務の関係でご一緒できませんでした。1983(昭和58)年2月23日ボロブドゥール修復完工記念式典が営まれました。日本から招請されて出席したのはわずか5名。しかも他の4名は経済界の重鎮や国家レベルの要職者。そうした中での先生のお喜びや感動は一入だったでしょう。

 修復完了にともない、ボロブドゥール修復支援会はその役目を終え、発展的に解消して「アジア文化交流センター」に衣替え。もちろん会長は宇治谷祐顕先生。以後、インドネシアはもちろん、中国・インド・ベトナム・タイ・ミャンマー等々、アジア諸地域の文化遺産を訪ねる旅を次々と企画し、現地踏査をするとともに交流活動を展開しました。

 数次に及ぶ中国各地の文化遺産・仏教史跡踏査、インド・タイ・韓国の仏教寺院や仏跡参拝・交流、ベトナムでは戦後復興未だの中、仏跡を訪ねて南から北へ縦断踏査・参拝等々、枚挙にいとまがありません。

 そうした中で最大の交流イヴェントを展開したのは、インドネシアの首都・ジャカルタのジャカルタ芸術劇場で1995(平成7)年8月23日に開催した「インドネシア独立50周年祝賀・日本の音と舞」演奏会。演奏会に先立ち客席両脇のロビーで開かれたティー・セレモニーによる交歓レセプションでは、来臨されたインドネシア政府高官や渡辺泰造駐インドネシア大使もご満悦でした。

 演奏会では、雅楽・箏曲・詩吟などの日本音楽に加えて、ガムラン・ジェゴッグ等ご当地音楽も演奏され大喝采を浴びました。宇治谷会長にとっても生涯最大の交流イヴェントだったでしょう。

 私が会長をお引き受けしてからも、中国・ベトナム・カンボジア等アジア各地の文化遺産を訪ねるとともに、異文化交流も企画・実施しました。その足跡を列挙すれば次のとおりです。

 *2000(平成12)年
  中国仏教史跡踏査の旅 ―天台山・普陀山―

 *2001(平成13)年
  ホーチーミンシティーとカンボジアのアンコール遺跡踏査研修

 *2002(平成14)年
  九寨溝と黄龍、大足石刻群の踏査・研修

 *2003(平成15)年
  (インフルエンザの世界的大流行で中止)

*2004(平成16)年
   麗江・大理・昆明の少数民族との出会いを求めて

*2005(平成17)年
   シャングリラ・中甸を訪ねて

※翌年からは視点を変えて「ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅」のテーマのもと、ヨーロッパの国々を訪れて実地研修を行うことになりました。調べてみるとヨーロッパに影響を与えたアジア文化・日本文化・日本人が意外と多く、その実績を訪ねて現地踏査をする旅は大変有意義でした。

*2006(平成18)年 その1
   クーデンホーフ・光子ゆかりの地を巡って

*2007(平成19)年 その2
   ドレスデンで古伊万里と出会い、ポツダムを訪れて日本との接点を学ぶ

*2008(平成20)年 その3
   パリの中心地で日本の古民家と出会い、ベルギー・オランダの文化遺産を訪ねて

*2009(平成21)年 その4
   杉原千畝氏「6000人の命のビザ」ゆかりのバルト三国とサンクト・ペテルブルグを訪ねて

*2010(平成22)年 その5
   修交150周年を迎えるポルトガルで「天正少年使節団」縁の地を訪ねて

   ※ヨーロッパ・シリーズ5回を終え、視点を変えて次を企画する段階で東日本大震災が発生し、甚大な被害を受けたことを痛んで海外研修を自粛し、秋に国内研修を実施。

*2011(平成23)年
   山陰・山陽の窯元を訪ねて

 列挙した実績のなか、強烈な印象が残照となって今もって私の脳裏に焼き付いているケースがあります。2006(平成18)年8月に実施した「クーデンホーフ・光子ゆかりの地を巡って」の実地踏査もその一つ。修復途中の光子の婚家のロンスベルグ城を見学した時、胸にジーンとくるものを感じました。荒れ狂う歴史の波に翻弄されながらも健気に生き抜いた彼女の生き様を学ぶことができ感動しました。お城再建に尽力されているドイツ在住のシュミット・村木眞寿美さんにもお会いでき、スピーチもいただきました。

 また、2009(平成21)年8月実施した「杉原千畝氏『六〇〇〇人の命のビザ』ゆかりのバルト三国を訪ねて」では、今まで知らなかったことを知らしめていただいた大変有意義な研修・踏査の旅でした。リトアニアはカウナスにある杉原記念館(旧領事館)は一般的な戸建て住宅。ここでビザを求めて殺到するユダヤ人に、本国の訓令に反して人道的立場でビザを発給し続けた杉原千畝領事代理。

 その杉原氏の美談行為はつい最近まで日の目を見ずに葬られていました。ちょうど私たちが訪れたころからTV番組でも取り上げられるようになりました。記念館の展示を目の当たりにしてジーンとくるものを感じたのは私ひとりではありますまい。立場が違えば人道的行為も葬られるのだと痛切に感じました。アジア文化交流センターのご縁で訪れた世界各地で得た感動・学びは数え上げれば切りがありません。会員及び関係各位には大変お世話になり恐縮の至りです。

合掌

《2012.4.3 前住職・本田眞哉・記

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