法 話

(134)縁起の道理

 

    死にむかって

    進んでいるのではない

    今をもらって生きているのです

    今ゼロであって当然の私が

    今生きている



大府市S・E氏提供
     
 ―鈴木章子さんの詩集より       

 
 
 

縁起の道理

 先月(4月)の13日は金曜日でした。西欧では忌みきらう日。何故かといえば、イエス・キリストが十字架に架刑された日だからとのこと。したがって、西欧では13日の金曜日はいわゆる「縁起の悪い日」。日本では、13日の金曜日はそれほど忌みきらわれている日ではないようです。

 そうそう、今年1月、イタリアはジオリ島付近でイタリアの大型豪華客船コスタ・コンコルディアが座礁したのが13日の金曜日。船には4,000人以上が乗っていたとのことですが、船長が船客の救助をせずに真っ先に逃げたことで有名?になりました。続報では29人が行方不明になっていると伝えられていました。やはり13日の金曜日は厄日だと声高に叫んでいる人もいるとか…。

 何年か前のことですが、中国を訪れた時、上海のあるビルのエレベータの階数表示には4、13、14が欠番になっていました。仄聞するところによれば、13Fを12Fbと表示しているところもあるとか。その他、空港のゲート、アパートの部屋、病室、飛行機の座席等々の番号でも4や13を欠番にしているところがあるようです。

 第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦後、東京で開かれた極東軍事裁判で死刑を宣告された「戦犯」が処刑された巣鴨刑務所。絞首台へ登る階段も13階段と報道されていましたね。一方、日本流では「9=苦」ということから9、また発音から「4=死」で4も忌みきらわれています。アパートや病院の部屋番号、航空機の座席番号から9や4が外されている例もあるとか。いずれも迷信以外の何ものでもありませんが、科学文明の時代といいながらこうした事例がまかり通っているのは、人間の弱さを露呈していること以外の何ものでもないでしょう。

 日柄・方位の迷信も人間の弱さという観点から見れば同類のものでしょう。結婚式や家新築の上棟式、新店舗の開店などは大安・吉日に行うのが常識化されています。また、友引の日に葬儀を行うと、関係者が死人に友として引き込まれ死ぬ恐れがあるということで、友引の日には葬儀を執り行わないことが一般化されています。以前は公営の火葬場も友引の日を休業としていましたが、最近では営業しているところも。私もつい最近、友引の日に葬儀を勤めさせていただきました。親鸞聖人からは「吉良日を視ることを得ざれ」とお教えいただいておりますので、社会常識も改められることを願っています。

 自分の日常生活に不幸が降りかかると「縁起が悪い」とおっしゃっているのをよく耳にします。では、その「縁起」の正体とはいったい何なのでしょう。「縁起」は仏教用語の「因縁生起」が語源。一般的には良いこと悪いことが起こる兆し、前兆の意味で用いられ「縁起を担ぐ」とか「縁起が良い」「縁起が悪い」等と言われています。こうした意味合いから「縁起直し」や「縁起物」などという風俗や習慣が生まれてきたものと思われます。

 しかし、「縁起」のもともとの意味は、世界中のあらゆる物事は直接的にも間接的にも、何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているということで、仏教の根幹をなす思想の一つです。「因縁生起」の「因」は結果を生じさせる直接の原因。「縁」はそれを助ける外的な条件のこと。ある結果が生じるには、直接の原因(近因)のみならず、その直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係し合うことが必要です。それら全ての関係性の結果として、ある「結果」が生じると考えられるのです。

 なお、その時の原因に関しては、数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを「因」と考え、それ以外の原因は「縁」と考えるのが一般的のようです。要するに、釈尊の悟られた「縁起の道理」では、全ての存在は「因」(原因)と「縁」(条件)によって「果」を生じているということ。しかし、その「果」は仮に成り立っているだけ。存在していると思っているけれど、それは「因」と「縁」が仮和合しているだけで本来は「空」であると、浄土教の創唱者であるインドの龍樹菩薩からお教えいただくのです。

 これは確かなものだ、間違いないものだと思って抱え込んでいたものが全て空しいものであった、ということです。実体がない、本来空であったということです。ただ、「空」とは単なる「無(非存在)」ということではなく、固定的実体がないということです。自我及び世界を構成するものの恒存性を認める誤った見解を否定することです。有無の対立を否定することと。私という存在もご縁が集まって私になっているだけで、ご縁を全部取り去ったら私という存在はないのです。ご縁によって仮初めに存在し得ているだけ。「因」と「縁」が仮に和合して「果」として私の存在が成り立っているだけ。吐く息も吸う息も、目も鼻も、心臓が動いているのもみなご縁。もともとはゼロであるこの身なのです。

    死にむかって

    進んでいるのではない

    今をもらって生きているのです

    今ゼロであって当然の私が

    今生きている

 48歳で亡くなられた鈴木章子さんの上の詩のように、自己存在が「空・ゼロ」であるという事実に目覚めたところに「今生きている」という喜びが聞こえてきます。「死んだらどこへ行くのか」。ご縁によってかろうじてこの世に存在している私。ご縁が尽きれば永遠のいのちの世界・お浄土へ還らせていただくのです。  

合掌

《2012.5.1 前住職・本田眞哉・記》

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