法 話

(135)尾張大江永井家

 

    
    




大府市S・E氏提供
     
      

 
 

尾張大江永井家

 
 

先月の初旬、愛知県碧南市教育委員会事務局の学芸員・豆田誠路氏が來山されました。永井直勝について調査しているので、関係深い当山から永井氏に関わる故事来歴をお聞きしたいとのことでした。碧南市の東端、かつて直勝が住んでいた屋敷跡があるとのことなので、永井家とは関わりの深い地域だということはかねがね聞いていましたので、お役に立てばと來山調査されることについて快諾しました。そうした“ご縁”に触発されて、私自身も永井家と当山の関係を改めて調べてみることにしました。

当山本堂の真裏(西)の墓地に「永井家」の区画があります。そこには永井一統の墓碑三十余基が建ち並んでいます。その区画の中心に「潮岸院釋良善」「清月院釋妙善」と刻銘された墓碑が建っています。夫君良善位は万治2(1659)年11月18日、ご令閨は延宝4(1676)年5月26日に入寂されています。4代将軍徳川家綱の時代。

当山の過去帳にも同様の記載がありますが、この潮岸院が大江永井家の初代で、俗名は永井正直。その永井本家の当代(第15代)は東京都世田谷区成城にご在住ですが、永井家の元々の本拠地は現在の名古屋市南区に位置する「荒井村」。さらにその淵源を訪ねると、当山の所在地「緒川村」。東永井の故永井勝三氏より昭和37(1962)年に当山に寄せられた調査結果には次のように記されています。

    寛政12(1800)年3月11日尾張藩士稲葉喜蔵ハ、藩命ニ依リ当寺ヲ訪レ住職九世恵慶ト面接シタ記録ニハ、

緒川ノ郷ノ民家ノ系図ヲ悉ク調査シタルニ、了願寺須弥壇ニ保管シタル過去帳ニ依ッテ当寺ノ檀徒永井伝四郎ノ同胞弟ガ永井伝八郎大江直勝デアル事ガ判ッタ

更に、永井伝八郎直勝については、

    緒川村ニ生マル、幼ニシテ親ヲ失ヒ、親戚ノ大浜町羽城城主長田直吉ニ養育サレ、十四歳ニテ岡崎三郎信康ニ仕へタガ、信康自害シタタメ帰家シ、
   天正7(1579)年義妹ノ婚家緒川村ノ沢田孫八郎(緒川城主水野下総守ノ家臣)ニ寄寓ス。翌年東端城(現・安城市)城代トナリ、
   寺津城主大河内秀綱二女由利姫ヲ娶ル。此年家康公ノ近侍トナル。同十(1582)年正月長子伝太郎正直生ル。同十二年小牧対陣ニ公ニ従ウテ出陣。
   四月九日長久手合戦ニテ敵将池田信輝ヲ討チ殊勲其他事績甚ダ多イ。累進シテ従五位右近大夫ニ任シ古河城城主七万二千石ヲ領ス。  ―以下略

これらの史料を基に判断すれば、永井直勝伝八郎が緒川村に在住していたことは間違いなく、さらに永井家が当時より了願寺の檀徒であったことも間違いない事実のようです。ただ、その後永井伝八郎直勝は、永井伝太郎正直生誕2年後に長久手合戦に出陣。敵将池田信輝を討ち取って殊勲を挙げ、従五位下右近大夫に任じ、石高七万二千石の古河城城主に叙せられたとのこと。寛永2(1625)年没、茨城県古河の永井寺に葬られました。

永井直勝のことで行数が膨らんでしまいましたが、直勝の長子で尾張大江永井家の始祖・永井伝太郎正直に戻しましょう。正直は、永井直勝・由利姫の長子として出生。しかし、3歳の時父・直勝が小牧出陣中の天正12(1584)年、母由利姫が病没。戦乱の中、直勝は東征西戦のため正直の養育は家臣に託されました。星崎の地(現・名古屋市南区)の家臣の生家で成長したとのこと。

伝太郎は長じて慶長17(1607)年星崎の庄荒井村に一家を創立。幼名伝太郎転じてフルネームは永井久右ヱ門大江正直。腹違いの弟尚政は、古河城主から山城国淀城に移封され、十万石を領したとのこと。同じく異母弟の直清は三万六千石を領する高槻城主となりました。これに対して長兄正直は対照的と申しますか、荒井村で農業を営み塩の製造販売に力を尽くしました。

前述のように永井本家の第15代当主・永井素夫氏は東京・世田谷に在住ですが、名古屋市南区元鳴尾町には永井氏一統の家々が現存します。今は国道1号線至近の天白川河口近くに立地する鳴尾町ですが、当時は製塩できるほどの海水の満ちた海岸だったのでしょう。「潮岸院」という院号も当時の地形と生業を類推するに余りある意味を持っていると思います。

さて、初代から現15代に至るまでの400年に及ぶ永井家系譜の中から数々の有能・有名な人材が輩出されています。私の独断と偏見で思いつくままに、そうした方々をピックアップして以下に記したいと思います。その著名度と実力でまず登場願うのは何といっても作家・文学者の永井荷風でしょう。

永井荷風は、12代正履代の分家永井匡温久一郎禾原・つね夫妻の長男で、本名は壯吉。彼は、今さら解説する必要のないほどの有名な文学者ですが、了願寺との関わりに視点を絞って以下に記します。荷風は病身で中学時代を過ごしたのち、一家ともども上海に渡航。帰国後、出身絞・東京高師附属中学校の校友会誌『桐蔭会雑誌』に「上海紀行」を発表。これは荷風の文壇デビューといってもよい一編で、作家の才能の片鱗を覗かせる作品であったとか。

その後旺盛な創作活動を続け、数々の作品を発表。24歳の時、実業を学ぶため渡米。帰国後『あめりか物語』を発表。その他の代表作としては『ふらんす物語』『?東綺談』『踊子』など。昭和27(1952)年に文化勲章を受章。荷風は生来“名古屋嫌い”とおっしゃっていたとか。鳴尾の本宅へ来たこともなく、当山にある永井家一統の墓参りもしたことがありません。したがってご本人の墓も当山になく、東京は雑司ヶ谷の墓園に建てられているとのこと。

荷風の父親・永井匡温久一郎禾原も有名人。明治7(1874)年アメリカのプリンストン大学を卒業。帰国後文部省の局長などを歴任し、退官後は日本郵船に入社。上海支店長などを務めた後、顧問に就任。漢詩を鷲津毅堂に学び秀作の数々を残しています。詩集『來青閣集』を著作。この詩集、荷風より寄贈を受けて当山にも所蔵されています。

詩集は紺色布地で装丁された帙に収められています。15㎝×26㎝の和綴じ本4冊に第一巻から第十巻までの1,180首の『古今體詩』を収録。大正2年12月に復刻発刊されています。当山への贈呈主は永井荷風で、添書には以下の文言が記されています。「先人遺著來青閣集今般印刷に付し候間一部進呈仕候御閲覽を賜り候は?大幸之至りに奉存候 敬具  大正二年一二月   永井壯吉」

坂本釤之助。永井匡温久一郎禾原の第3弟(荷風の叔父)。28歳で上京し漢学や書を学び、33歳で松山藩士坂本政均の養子となる。福井・熊本・鹿児島県知事を歴任後名古屋市長に就任。貴族院議員にも勅撰され、昭和9(1934)年には枢密院顧問官に任ぜられました。昭和9(1934)年80歳で亡くなられました。小説家・詩人の高見順は、坂本釤之助の福井県知事時代の非嫡出子、本名は高間芳雄。明治40(1907)年生~昭和40(1965)年没。タレント・エッセイストの高見恭子は高見順の実子。

第4弟の大嶋久満次氏は慶応元(1865)年鳴尾の宗家で出生。東京帝国大学法科大学英法科を卒業して法制局参事官補に就任。明治27(1894)年大嶋家の養子になり、明治40(1907)年台湾総督府の民政長官に補任されました。明治44(1911)年9月退官し、明治45(1912)年には神奈川県知事を拝命。大正4(1915)年3月第12回普通選挙に出馬し衆議院議員に当選。大正7(1918)年4月病没。享年53歳

3代遡って第8代永井松右衛門匡?は有名な儒学者。号は星渚、通称?斉先生。儒学を市川鶴鳴に師事。その後独学の時期を経て忠敬説を提唱。門弟は数百人あったとのことで、伊藤両村、澤田眉山等の有名人も名を連ねています。当山10世の本田正因住職も門弟の一人だったとの記録があります。当山の永井家一統の墓地区画に「?斉先生の墓」と標記した墓碑があります。文政3(1820)年3月建立。

永井勝三氏が、昭和37(1962)年7月発行の当山時報『受教』第3号に寄せられた永井星渚に関する文書には次のように記されています。

    尾張藩士(400石)明倫学堂督学細野要斎(1807~1878)著感奥漫筆ニ載スルニ星渚学舎ヲ訪レテ調査ス、
   又嘉永5(1852)年9月28日緒川村角屋七左右衛門室ニ泊シ翌日了願寺ニ詣デ住職良因のノ案内ニテ星渚ノ墓ヲ展シ碑文ヲ写シテ記ス

世代は下って、第13代永井松右衛門松三(荷風の従兄弟)は明治10(1877)年生。東京帝国大学卒業後外務省に入り領次官補となり、天津領事館、ニューヨーク領事館、ワシントン公使館に勤務。明治41(1908)年11月サンフランシスコ領事代理を拝命したのち総領事となり、大正7(1918)年にはイギリス大使館参事官に就任。昭和5(1930)年ロンドンで開かれた海軍軍縮会議では、若槻礼次郎主席全権大使とともに全権委員として出席。昭和8(1933)年ドイツ駐在特命全権大使に補任されました。終戦後の昭和22(1947)年、日本体育協会日本オリンピック準備委員会議長に就任。戦後日本のオリンピック参加復帰に尽力。昭和33(1958)年5月19日病没。享年80歳。

以上了願寺門徒・永井家について私なりに調査した結果を纏めてみましたが、間違った部分がありましたらご指摘・ご指導ください。               合掌

《2012.6.5 前住職・本田眞哉・記

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