法 話
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![]() 大府市S・E氏提供 |
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「お盆」の時節となりました。お盆はいつからいつまでかといいますと、正式には旧暦(太陰暦)の7月13日から16日まで。ただ、現在は地域によってその時期が異なっています。いわゆる東京盆は太陽暦の7月13日から16日まで。名古屋以西では8月13日から16日までの、いわゆる月遅れ盆が慣例となっています。また、本来のお盆(旧盆)の期日を太陽暦に当てはめると年によってかなり異動があります。今年は8月30日から9月2日までとなります。
一方、「お盆」の語源はサンスクリット語の「Ullanbana」。先人たちはその発音を漢字に当てはめて「盂蘭盆」としました。こうした手法を「音写」と言い、他にもParis→巴里、London→倫敦、France→仏蘭西、等の例があります。次に、Ullanbanaの意味ですが、これは「倒懸(逆さ吊り)」の意。さらにその淵源を訪ねると「盂羅盆経」記されている故事に辿り着きます。「盂羅盆経」には、釈迦十大弟子の一人で「神通第一」といわれた目蓮尊者の物語が説かれています。
目蓮尊者が神通力で亡き母の姿を探し求めたところ、母は餓鬼道に堕ちて逆さ吊りになって苦しんでいました。そこで、目蓮尊者は神通力を使って食物を母のもとへ送ります。ところが、母が食物を口へ運ぶと炎になってしまって食べられない。何度も何度も食べ物を口へ運ぶけれども食べられない。困り果てた目蓮尊者は釈尊を訪ねて相談しました。そしたら「安居(雨期に僧侶が一定期間籠もって道心を修養する講義講究会)の最後の日に三世の諸仏に百味の飲食を供えなさい」と釈尊。目蓮尊者は釈尊の教えに従って、衆僧を招いて法会を執行。その結果、衆僧供養の功徳によって母は餓鬼道の苦しみから解放されたといわれています。
他宗派では、こうした故事に倣ってお盆の行事が行われます。13日には冥土から先祖の霊を迎えるため、茄子やキュウリで乗り物の馬を作り迎え火を炊きます。我が家に滞在する先祖の霊のために料理を作り霊供膳でお供えをします。13日から16日までの滞在中、三度三度の食事はもちろん、お夜食まで作ってお供えしなければならないとか。そして16日には冥土へお帰りになるので送り火を炊きます。毎年行われる京都の大文字焼はその送り火なのです。霊(餓鬼)がこの世に滞在中には施餓鬼供養の法要が営まれます。こうしたお盆の行事は、人は死ぬと霊魂になって冥土へ行き、そしてお盆には帰省する、帰省するからにはお迎えして接待し慰霊・鎮魂に勤めなければいけない、という教えに基づいているのでしょう。
以上が他宗派における一般的なお盆の仏事です。こうしたしきたり的仏事を実行しないと、不都合なことや災い・祟りが起こるとされています。これに対して、我が浄土真宗・親鸞聖人の教えではこうした“しきたり”的なお盆の仏事はする必要はないし、しなかったからといって祟りや災いが起こるということはありません。逆に、真宗門徒がこうした仏事をすることは親鸞聖人の教えに反することなので、してはいけないのです
親鸞聖人の教えは「即得往生」。「即」は、すなわち、時を経ずの意。「往生」は往きて生まれる、浄土へ往きて生まれる、の意味です。何に生まれるかといえば、仏として生まれる。経文ではそのあとに「住不退転」の文字が付いています。浄土に往生したら不退転、元へ戻らないということ。したがって、浄土で仏となって生まれたものが霊となって娑婆へ還ることはありません。
親が亡くなった場合などに、親鸞聖人の教えを聞く真宗門徒が時たま喪主あいさつの中で、「あの世へ行った」とか「天国へ行った」などと述べるのを聞いたことがありますが、これは間違いです。「お浄土へ往き、仏としてお生まれになった」が正しい用語。ましてや「お盆には、地獄の釜の蓋が開いて先祖の霊が娑婆へ還ってくる」などということは我が浄土真宗の教えにはありません。
では、真宗門徒はお盆に何をどうすればよいのでしょうか。一口で言えば、亡き人や先祖に対して何かを差し向けて供養しお祓いするのではなく、今現に、こうして賜っているいのちの事実に向き合い見つめなおして、祖先や亡き人に感謝の念を抱いてお参りすること。亡き人が迷って出てくることもなければ、生きている私が迷うこともありません。
家においてはお内仏(お仏壇)をお掃除し、打敷を懸けお花も立て替え、真宗の作法に則ってお供えとお飾りをして荘厳します。そして家族一同うち揃って勤行をし、お念仏の教えの先達としての亡き人を偲びつつ崇敬しましょう。加えて自分自身が念仏の教えを聞信し、次世代へ伝えるご縁としたいものです。
また、お墓へもお参りして、本願念仏のみ教えを伝えてくださった先祖の遺徳を感得するとともに、自らの生き方の糧にする機縁ともなれば墓参の意義もいっそう深まりましょう。手次のお寺にお願いしてお盆の法要を営み、真宗の教えをいただくのもよろしいかと…。真宗門徒にとってお盆の法要は、限りなく広く長いいのちの関わりを、直接私に伝えてくださった方として、親やご先祖のご恩を念ずるご縁であることを意味しています。
お盆の法要や法事を勤めないと何か不都合なことが起こり、災いや祟りがこの身に降りかかると考える人たちがいます。こうした考えには、我が身の身の回りに起こる問題の原因を亡き人と結びつけ、すり替えてしまう人間の打算や傲慢さがあると思います。そして、その根底には人間の迷い、心の迷いがあるのです。しかし、自分では迷っていると思っていない。そこが重大問題です。
人間の迷いの典型が「迷信」です。これがまた「霊の信仰」に繋がっていくのです。親鸞聖人の作られた『愚禿悲嘆述懐和讃』には次の一首があります。
かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
聖人は、当時の仏道修行者も在俗の人々も、行動の前に日柄・方位を選び、天の神地の神を崇め、除災招福のためのお祓いや祭りごとに一生懸命になっている、と嘆いていらっしゃるのです。日常の吉凶禍福を左右する力を持つ霊を神として祀ることにより凶禍を免れ、吉福を招き寄せようとする宗教心、これが鎌倉時代の卜占祭祀の内実ですが、残念ながら科学の進歩した現代でも一向に衰えない“霊の宗教心”。
また、聖人は当時の世相の宗教心を次のように悲嘆していらっしゃいます。
五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
聖人ご入滅から750年余を経て科学技術が進歩した今日でも、そのまま通用する悲嘆のお言葉であり戒めのお言葉であると受け止めさせていただきます。ただ、こうした教えの言葉に出会うご縁も平生の日暮らしの中ではなかなか恵まれません。そういった意味ではお盆は大切なご縁だと思います。日頃は疎遠になっている仏法に出会い、先祖の威徳を讃えつつ我が身のいのちについて学ばせていただくことができればと願っています。
合 掌
《2012.8.2 前住職・本田眞哉・記》