法 話

(138)お彼岸

 

    
    




大府市S・E氏提供
     
      

 

お彼岸(  ひがん)

   

  

 「暑さ寒さも彼岸まで」とか。しかし、酷暑の夏のあとを受けての今年のお彼岸、残暑の延長戦になるかも。「彼岸」は春季・秋季年に二度巡ってきます。暦の上では、春分の日・秋分の日を中心に前後三日間、計七日間が彼岸の期間。この期間に仏教各宗各派の寺院では法要が営まれ、仏教行事が催されます。墓地では墓参の人たちで大賑わい。インドはもちろん、仏教北伝の中国・韓国にもない日本独特の仏教活動・仏教行事です。

 ところで、「彼岸」の意味するところは何なのでしょう。「()(きし)」とは、ズバリお浄土のこと。彼の岸があれば「()(きし)」があるはず。あります、「()(がん)」です。江戸っ子が発音すると「ひがん」も「しがん」の同じに聞こえるかも…これ余談。彼岸・悟りの世界の対岸にあるのが此岸・迷いの世界。もともとは「彼岸」の頭に「到」の字が付いていました、「到彼岸」。此の岸・迷いの世界から、彼の岸・悟りの世界へ到るとの意。

 「彼岸」の原語はサンスクリットの「Paramita(パーラ ミ タ)」で、音写すると「()()()()」。漢訳すると「到彼岸」。この熟語は、苦悩の多き迷いの世界を出でて悟りの世界・涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)の世界に至ろうという願いが込められた仏教用語。お彼岸のお中日の太陽は真東から昇り真西に沈みます。この自然現象は、西方浄土への往生(おうじょう)を願う日本人の心にはその道しるべとなってピッタリ。お彼岸は、お浄土に住む有縁(うえん)の亡くなった方々を思い起こし、生かされていることへの感謝の念を抱く大切なご縁といえましょう。

 因みに、最近マスコミ等が「往生」という言葉をネガティブな意味で使っているのをよく耳にします。例えば「電車が立ち往生した」と言うように。行き詰まったとか、どうにもならない状況に陥った状況の表現などに使われています。とんでもない話だと思います。本来の意味は全く反対で、「()」きて「()まれる」の意。どこへ往って何に生まれるのかといえば、一切の煩悩やけがれを離れた清浄な国土へ往き、仏として生まれる。これが「往生浄土」の本来の意味。

 ところで、今年の秋のお彼岸のお中日・秋分の日は9月22日。カレンダーを見てエッと思ったのは私だけではありますまい。今までに22日の秋分の日は私の記憶にありません。拙寺では毎年秋のお彼岸のお中日に「永代経」の法要をお勤めしております。寺務用パソコンのデータの中から永代経の案内状の原稿をチェックしてみましたが、22日法要執行の案内状はありませでした。

 パソコン導入以前の昭和50年代の始め頃は寺報も法要案内もすべてガリ版刷り。鑢板に蝋原紙乗せて鉄筆で文字を書いて製版。その蝋原紙を謄写版の木枠に貼り付け、インクを付けたゴム・ローラーで一枚ずつ印刷する方式をとっていました。私の住職就任は1959(昭和34)年ですが、それ以前から手がけているガリ版刷りの保存文書を全てチェックすれば、22日が秋分の日であったことが分かるかも知れませんが、膨大な作業量となり事実上チェックは不可能。

 インターネットで今年の秋分の日について検索。すると関連ページが見つかりました。その筆者も「生きているうちで、こんなことは初めてですね。常識が覆されたように感じています。」とコメント。それもそのはず、1979(昭和54)年の24日の異例のあと、翌1980(昭和55)年から2011(平成23)年に至るまで32年間はすべて22日だったとのこと。その筆者が50歳代以下だとしたら記憶にないのも当然のこと。かてて加えて、ネット上で見つけた下記の記事にはビックリ。国立天文台に依ると、秋分の日が9月22日になるのは何と1896年以来116年ぶりとのこと。

 さて、話を元へ戻して、前述の「到彼岸」について今少し訪ねてみましょう。煩悩に満ちた苦しみの世界「此岸」を離れて、明るい仏の世界「彼岸」に到る「到彼岸」のための実践行を「六度の行」と言います。原語のサンスクリット語を交えて「六()()(みつ)」とも言います。

 それは、
     ①  布施(ふせ)―執着を離れて、施しの行をする

  ②  持戒( じ かい)―仏の教えに従い、正しい行為をする

  ③  忍辱(にんにく)―苦から逃げず、現実に立つ

   ④  精進(しょうじん)―できることを精一杯、務め励む

   ⑤  禅定(ぜんじょう)―乱れる心を静め、平穏な心をもつ

  ⑥  智慧(ちえ)―真理にめざめ、正しい道理に従う

の六つの行。私たちの日常生活においても、学び実践することを求められることばかりです。お彼岸をご縁として、我が身に照らして味わってみたいものです。

 親鸞聖人は彼岸を浄土と仰ぎ、私たちの人生の依り処であり、また帰るべき処であるとおっしゃっています。その浄土の光に照らされると今を生きる場が此岸とうなずかれてきます。そして、浄土の光に照らされて私のいのちが輝くのです。浄土の真実を宗として今を生きる、それが浄土の真宗であり、南無阿弥陀仏のはたらきでありましょう。                

  合掌

《2012.9.2 前住職・本田眞哉・記

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