法 話
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大府市S・E氏提供 |
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10月30日付け『中日新聞』夕刊11面に、特大活字で「『手元供養』遺族癒す」の見出しを付けた記事がありました。サブタイトルは「遺骨ダイヤ」「遺灰ペンダント」の横書きゴシック文字と「仏壇・墓の代わりも」の明朝体縦書き。黒塗り位牌と手前に置かれた指輪の写真も添付され、「遺骨などを身近に置く『手元供養』が広がっている。葬祭業者も指輪などのサンプルを展示して遺族に紹介する」との写真説明が付けられていました。
これらの見出し文字列と写真説明文からこの記事の内容を大凡ご理解いただけたと思いますが、要は家族等が亡くなっても、仏壇も位牌もお墓も不要と考える人が増えてきているということでしょう。少子化、世代間別居、無宗教化の流れから生まれてきた日本の社会現象の一端かも知れません。特に後継者のいない老夫婦にとっては、死後残された仏壇や墓の“処分”も重荷になりましょう。
この「手元供養」の企画もそうした背景を見通しての商魂とみられますが、この透き間商法意外と受けるかも。具体的には、依頼主から預かった遺骨を使って作業を進めるようです。遺骨から取り出した炭素に高圧をかけてダイアモンドを作製。そのダイアモンドを指輪に取り付けて指にはめ、遺骨と密着して日暮らしをするという発想。一方、遺灰は石英と混ぜて焼き固めてペンダントを作り、常に身につけ故人を偲ぶことができるとのこと。
いずれにしても、亡き人・愛しき人が常に身近にいるという感じで癒やされるということのようです。いわゆる「手元供養」ができるということでしょう。「ご遺骨や遺灰が故人と遺族をつなぐことは昔と同じ。お骨が心の支えとなり、癒やしとなる日本の伝統的な思想そのものだと思う」との「手元供養」創唱者のコメントも添えられていました。
こうした企画は、少子高齢化・世代間別居の進む現代社会においてはタイムリーな商法だとは思いますが、わが浄土真宗・親鸞聖人の教えに照らしてみるといかがなものかと思わざるを得ません。第一に親鸞聖人は、いわゆる「供養」の言葉とそのあり方については否定的な取り扱いをされています。代表的な言葉としては『歎異抄』の「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。…」。
そうした聖人のお考えの根底には、供養する心の奥底の問題があったのでしょう。それは何かといえば、供養することによって得られるご利益。そのご利益を得るためには「祈願」の心の働きが見え隠れしています。供養する心と祈願する心が一体になって働きご利益に預かることができるというのが世間一般の受け止め方ではないでしょうか。
供養と祈願は表裏一体の関係。そうした観点から聖人は、「祈願」という言葉についても否定されています。聖人の教えの流れをくむ浄土真宗の各寺院では、「お祓い」とか「ご祈祷」とか、いわゆる祈願法要は一切執行していませんし、「占い」とか「おみくじ」等の卜占活動は全くありません。「卜占祭祀」大繁盛の日本の宗教界の中で、真宗寺院のみが特異な存在となっています。
では、親鸞聖人はなぜ他宗派では一般的に行われている「供養」「祈願」や「卜占祭祀」をよしとしないのでしょうか。そのポイントはご自身の真実を求めての“信仰遍歴”の中にあるのではないでしょうか。聖人は9歳の時青蓮院門跡で得度し、比叡山延暦寺で修行に励みました。しかし、その延暦寺では貴族をスポンサーとした祈願・祈祷法要が盛んに営まれていました。また、修行僧の出身門地による差別も横行していた模様。
そうした比叡山での修行では真実の救いを見いだせず、聖人は29歳で下山し、聖徳太子の建立と伝えられる六角堂に参籠。95日目の暁、聖人は救世観音の夢告を受け、そのまま吉水の地におられた法然上人のもとを訪ねられました。そしてさらに100日、法然上人の教えに耳を傾けられ、ついに、本願念仏の教えこそ全ての人々を救う法であるとうなずき、帰依されたのです。
その後法難にも遭われましたが、遠流の身となった中でも辺地の人々を教化するとともにご自身の信心もますます深められました。親鸞聖人の作られた『和讃』の中には聖人の信心の純粋性が端的に表現されています。
五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
合掌
《2012.11.2 前住職・本田眞哉・記》