法 話

(141)ウォーキング

 

    
    




大府市S・E氏提供
     
      

 

ウォーキング

 夕食を済ませてウォーキング・ウェアに着替えます。そしてスニーカーを履いて出発。私の日課の一つ、ウォーキングの始まりです。時計の針は午後6時30分を指しています。自坊を出てまず西の方向へ。昔ながらの細い道。道幅はほとんど2m未満。したがって、既存の家屋を取り壊して建て替えるとなると、道路中央線より1mの所までセット・バックしなければなりません。

 何せ緒川の郷は古い街。狭い道幅も曲がりくねった道筋も、長い歴史を受け継いでいることを物語っています。緒川の郷は水野貞守の城下町。緒川城の築城が1475(文明7)年といわれていますので、これは古い、古~い時代の話。もちろん「関ヶ原」以前。緒川城初代城主水野貞守から4代目が水野忠政。彼は1533(天文2)年大規模な刈谷城(亀城)を築きここを本城とし城主に。

その水野忠政の第3子が「於大」の方。緒川城で生まれ、刈谷城で育った於大の方は1541(天文10)年、岡崎城主松平広忠のもとへお嫁入り。お歳はといえば広忠は16歳、於大は14歳。今の時代感覚からすれば実に早婚。翌1542(天文11)年12月、於大15歳で竹千代(家康)を出産。

 ところが翌1543(天文12)年、刈谷城の実父忠政が52歳で病死。後を継いだ兄信元は今まで忠政が努力して築いてきた親今川・松平路線を捨てて織田家の味方になってしまいました。庇護を受けてきた今川氏に対する気兼ねもあり、広忠は於大を離縁することに。いずれにしても、緒川の郷はあの徳川幕府を開いた家康の生母の出生地なのです。

 翻って当山・了願寺の歴史を紐解いてみますと、奇しくも当山開創の時期がほぼこの時代と重なるようです。当山の開基・良空法師が天台宗から浄土真宗に転派し、寺号も「帰命寺」から「了願寺」に改称したのが1522(大永2)年。良空法師は、当山備え付けの過去帳に依りますと、1581(天正9)年4月7日命終。因みに、私は第16代住職を50年勤めさせていただき、現在は長男が17代住職を勤めております。

 話を緒川の郷に戻しまして、地区内には更に更に古い歴史の跡があります。それは、了願寺境内と小さな小さな川「紅葉川」を挟んで隣接する「入海神社」境内にある「入海貝塚」。昭和16年に東京大学の酒詰仲男教授が発掘したのが発端となり、その後たびたび発掘調査が行われ、昭和28年に国指定の文化財史跡になりました。

 この貝塚の時代は縄文早期、今から約6,000年前。同時代の貝塚は県内にも数カ所あったようですが、いずれも開発の波に洗われて壊滅してしまった模様。この貝塚で有名なのは「入海式尖底土器」。底の尖った砲弾型の土器。黄褐色の出来上がりで、表面に粘土の紐を3~5周り貼り付け、指で丹念に押し独特の突帯紋を造形。この形は他に類例がないので、東海地方に於ける縄文早期土器の標式の一つになっているとか。

 この尖底土器は、長い粘土の紐を山の麓から頂上へ登るようにグルグル巻き上げて作るとのこと。底が尖っているのは、炉の中に突き立ててその周囲で火を焚けば、ものを煮ることができるためです。これは、人類が初めて作った土器の形ですが、生活の中に物を煮る器具が登場したことにより、食生活に一大変革が起こりました。それまでは食物を焼くか、石皿の上で叩いて柔らかくするしか方法はなかったのでしょう。この土器の発明によって、人々は汁のしみこんだ肉や植物を味わうことができたのではないかと想像されます。

 話を元へ戻しまして、かなり早足で寒風に向かって歩を進めます。何のためにそんなに早足で歩くの?とのお尋ねの向きもおありかと思いますが、そう、歩く目的は糖尿病の治療のためです。20年ほど前になりますか、検査の結果は「高血糖」。医師からは、薬よりウォーキングを勧められました。ただし、「犬の散歩はダメですよ」とのご指導。

 以来、早足で歩いています。5㎞の距離を50分で歩きます。時速に換算すると6km/h。知人達と情報交換するとこの速度はかなり速い方のようです。回数はといえば、毎日と言いたいところですが、雨が降ったり、通夜が入ったり、会議があったりしてフルにはできません。平均して1週間に4~5回できれば上々といったところでしょうか。

 糖尿病対策としては、歩く距離・速度もさることながら、エネルギー消費もキー・ポイントになるのだろうとの素人判断から、負荷を掛けるコースを選びました。標高10mの自坊から歩き出して標高40mの地点まで1,200mの道のりは上り坂。急坂ではなく、いわゆる“だらだら”坂ですが、早足で歩くとかなりの負荷を感じます。真冬でも汗をかきます。

 そのあと200mほどはフラットなスカイ・ラインの歩道。通過車両の排気ガスを気にしながら進み、次の三叉路信号で左折すると急な下り坂。傾斜角15%の路面をしっかりグリップ。歩道路面は横に溝を切った洗濯板のように施工されているものの、スリップが心配でつい早足で駆け下りてしまいます。坂を下りきったところの信号を左折すると曹洞宗中本山「宇宙山乾坤院」の山門前。

 乾坤院は、初代緒川城主水野貞守が1475(文明7)年に開創。貞守は、前述のように徳川家康の生母・於大の父忠政の曾祖父。緒川というところは何かと徳川家康とご縁が深いところ。因みに、緒川の郷の中心部に「善導寺」という浄土宗のお寺があります。この寺も於大ゆかりの寺。寺の縁起に依れば、「於大は緒川城主水野忠政の娘で、生誕の地である因縁から時々この寺に参詣し、菩提寺の約束もし、仏師感清の作になる1尺1寸の三尊来迎仏像と供養田850文を寄進した」とのこと。

 1602(慶長7)年8月28日於大は京都の伏見城で逝去し、江戸・小石川の無量寺(現・伝通院)で葬儀が執り行われました。時の緒川城主水野備後守分長は、帰城後於大追善のため1605(慶長10)年善導寺を海辺から山上(現在地)に移転建立し位牌を安置するとともに、寺領20石余と屋敷地1箇所を寄進したと伝えられています。

 話をウォーキングに戻しまして、その名も「於大公園」(東浦町公園緑地課管理)の正面入口を左手に見て東へ進みます。ほどなくして東浦町役場下にさしかかると、ここは「医者村」。内科、人工透析科、整形外科、眼科等々、1㎞足らずの道路沿いに6医療施設がズラリ。もちろん薬局も。続いて、バーガー、うどん、ラーメン、ランドリー、電器、ケータイ、コンビニ、学習塾、婚礼、人材、金物、焼き肉等々のお店が道の両側に軒を連ねています。

 こうした店々の電飾のきらめきや賑やかな車の流れを横目に見ながら歩道をスタコラ。青信号で旧国道を渡ると、道は4車線となり展望が開けます。JR武豊線のガードをくぐるとイオン・ショッピングセンターの大型店舗が眼に飛び込んできます。約80,000平方メートルの敷地に建物と駐車場が展開し、ライトが煌々と輝きまるで不夜城。

敷地東側沿いの4車線の国道バイパスには、どこから来たのか膨大な数の車が轟音を響かせて通り過ぎて行きます。その国道を隔てた向こう側には、自動車ディーラー3社、大型洋服店、ガス・ステーション、バーバー・ショップ、ホーム・センター、レンタルビデオ、大型ゴルフ用品店等々が立ち並んでいます。

イオン・ショッピングセンターの巨大敷地の角を左折してJR武豊線緒川駅の方向へ歩きます。ショッピング・センター敷地西北角のスクランブル信号を渡ると正面にはまた「イオン・モール」の電飾を掲げたビル。ここはプールと結婚式場とパーキングの建物。私が平成22年春の叙勲で旭日双光章受章の栄に浴した際、有志の方々が受章をたたえて祝賀会を催してくださった会場がここの結婚式場。私にとっては非常に印象深いものがあります。

 この建物、JR武豊線緒川駅とは目と鼻の先。ところで、JR武豊線といえば、その歴史の古さは日本有数。1886(明治19)年に東海道線の建設資材を武豊港から運ぶために建設された路線。未だに単線・ディーゼルで利便性はいまいちといったところでしょうか。ただ、2015(平成27)年完成を目途に電化の準備が現在進められています。電化されれば、大府から東海道線に直接乗り入れできる本数が増えて利便性は増すことでしょう。

 緒川駅まで来れば残り歩数もわずか。昔ながらの風景の駅西地区を通り過ぎ、旧国道を横断。バイパスができたとはいうものの、旧国道の交通量は意外と多く、横断の信号待ちもかなりの時間。刈谷方面からの地方道と旧国道の交差点の信号を左折。このあたりの夜景も、レンタルメディア店と大型電器店の外壁照明で付近一帯は真夜中まで、否、早朝4時ごろまで煌々。

 電器店から離れてほどなく、境内の坂道を登って自坊に帰着。時計を見ると午後7寺20分。出発からちょうど50分。本日のウォーキング、いつものペースで5㎞を歩き終え、無事ジ・エンドを迎えることができました。

  合掌

《2012.12.3 前住職・本田眞哉・記

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