法 話

(144)69年前の激震

 

    
    




大府市S・E氏提供
     
      

 

「69年前の激震」




 あの東日本大震災発生から間もなく丸2年が経過しようとしています。爾来、被災された方々には有形無形の痕跡が影を落としていることでしょう。地震発生以来新聞各紙の紙面には、被災状況から復興状況に至るまで、大震災の記事が載らない日はないといっても過言でないほどの報道ぶりでした。そうした記事に接するたびにこの寒い時期に思い出すのは、私自身の過去の震災体験。

それは1944(昭和19)年12月7日発生の「東南海地震」と翌1945(昭和20)年1月13日未明に起きた「三河地震」。私は小学校、否、国民学校2年生。午前中で授業を終えて帰宅。母と祖母と昼食を済ませ居間で寛いでいると、初期微動は殆ど無くいきなり猛烈な揺れ。「地震だ!」。母の声にはじき飛ばされるように跳び上がり走り出しました。玄関の引き違いガラス戸が、両側の柱にピシャン・ピシャンと打ち付ける透き間をすり抜けて必死で戸外へ。

地面が激しく揺れてまともに歩けない、走れない。四つん這いになって無我夢中で駆ける?こと20m余、一応安全なところに辿り着きへたり込みました。来し方を振り返ると、高さ3mほどの石灯籠が倒れてバラバラ。通り過ぎた直後に倒壊したのです。2秒か1秒か、あるいは0.5秒、私が通り過ぎるのが遅かったら、この文は書けなかったでしょう。

地べたに座ったまま本堂を仰ぐと、七間四面の本堂の大屋根が左右にギーッ・ギーッと大揺れ。軒先の振幅は120~130cm。今にも倒れるのではないかとハラハラするなか、2分以上続いた揺れも収まりホッ。ようやく立ち上がって山門の前を見ると、水面が5m×5mほどの防火用水池から水が道路に溢れ出ていました。

揺れがおさまってからも、しばらくは怖くて家の中に入る気になれませんでした。夕刻、住まいである庫裡の中に入ってビックリ。柱は10°以上傾き、壁は崩れ落ち、タンスは倒れ、足の踏み場もない有様。でも、母は健気にも畳の上や廊下に落ちた砂や埃を掃除していました。

今の若い人たちに話しても信じてもらえないかも知れませんが、都会ではなくいわゆる“郡部”の当地では、当時水道もガスもありませんでした。水は井戸水、熱源は薪とタドン。もちろん電話もテレビもなく、情報源は新聞とラジオ。そのラジオも電源は交流のみで、バリ・コンを使った“再生付き”「並3球ラヂオ」。地震後長期間停電が続き、“情報聴取”ができなかった記憶です。

停電といえば夜間の「明かり」の確保も重大な問題。地震当日、その明かり確保のため「残蝋」を取りに本堂へ。残蝋とは「残った蝋燭」の略語。法要時に仏前に蝋燭を点しますが、だいたい法要中に燃え尽きず蝋燭が残ります。その残った部分が「残蝋」。本堂内の畳の上も板の間も揺れによって振りまかれた壁土や埃でザラザラ。内陣の輪灯は外れ落ち、油皿の灯明油が畳や床に振りまかれベトベト。

それにも況して魂消たのは、須弥壇上の蓮如聖人の絵像を安置した白木の厨子が4分の3バク転して須弥壇の前の4帖の畳の上に安着していたのです。厨子飛翔の航跡?を推測してみると、厨子が上方へ突き上げられると同時に、横方向の揺れにより背後から力が加わって前に押し出され、弧を描いて270°回転して、扉のある正面を上にして畳の上に安着した格好。厨子の屋根の出っ張りが少し傷んだ程度で本体はほとんど無傷。2004(平成16)年3月に厳修した蓮如上人450回御遠忌法要の記念事業として塗漆・押箔修繕するまで60年間お役に立ってくださいました。

折しもこの地震発生の翌日12月8日は大東亜戦争開戦記念日。国民の戦意喪失を危惧してか、はたまた敵国アメリカ等のつけ込みを恐れてか報道管制が敷かれ、歴史資料で当時の新聞を見てもこの地震についてはほんのわずかしか取り扱われていません。したがって、その規模も正確なデータがないようですが、一応マグニチュード8、震度6とされているようです。

東南海地震の災害復興どころか余震も頻発する翌1945(昭和20)年1月13日未明、またもや烈震が当地方を襲いました。名付けて「三河地震」。その名が示すとおり、当地より東に隣接する三河地方で甚大な被害が発生。熟睡のさなか、エア・ハンマーで突き上げられるような衝撃で目が覚めました。震源直下型の典型でした。外へ飛び出したものの、真っ暗闇で酷寒。近所の人々が集まってきて寒さと怖さに震えながら体験談。

興奮気味に言葉を交わしている内に黎明の中お互いの顔が分かるようになりました。ふと本堂の大屋根に目を向けると、幅3m、長さ5mほどの黄土色の帯。次第にその帯が色濃くなって浮かび上がってきました。そう、屋根瓦がずり落ちて下地の赤土がむき出しになっているのです。こりゃ大変なことになった、雨が降ったら堂内は水浸しになる、と子供心にも暗い影が差しました。でも、本堂が倒れなくてよかった…。

あとから分かったことですが、震源の三河地方では我が宗門の寺院にも甚大な被害が出ました。本堂が倒壊した寺院も数多。最も悲惨だったのは西尾市の安楽寺様のケース。集団疎開していた名古屋市の大井国民学校の学童8人が地震で倒壊した本堂内で圧死。この子どもたちは、最初海部郡の蟹江の方へ集団疎開していましたが、近くにB29からの爆弾が着弾。危険だということで西尾へ再疎開していたのです。

両地震の体験者も高齢化し語り部も少なくなってきました。おこがましくもそうした語り部の一端を担った気分で書き留めてみました。地震予知の技術も格段の進歩を遂げているようですが、反面、人知をあざ笑うように自然が猛威を振るうこともあります。東海地方で近未来に巨大地震が発生するとの予告を受けて、地方自治体等でも耐震工事を進めてきましたが、その裏をかくような形で700km離れた東北地方で超巨大地震が発生。いくら科学が進歩し知識が豊富になったとはいえ、自然界の力の前には非力としか言えません。自然の力に対して人間はあくまでも謙虚であるべきだということを痛感する今日このごろです。

  合掌

《2013.3.3 前住職・本田眞哉・記

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