法 話

(145)さくら…桜 

    

           

「さくら…桜」


 写真は当山境内の満開の桜。3月30日撮影。例年は4月4~5日ごろが満開時期。今年は例年にない厳冬だったため、桜の開花も遅れるのではないかと思いきや、逆に例年より早く満開を迎えました。当山境内には、桜の木が大小合わせて6本あります。鐘楼周辺に5本、庫裡の東の土手に1本。鐘楼の南北にある2本の幹の直径はともに50㎝ほどあり巨大で、他に比べ抽んでています。

 記憶が定かではありませんが、植え付けたのは今から62~63年前だったと思います。私が中学一年生になったときだったと思いますが、「緑の週間」の記念事業として桜の苗木を東浦町からいただけるということで、希望本数を申し出るようにとの「お知らせ」があり、母親が確か数本の希望を出したと思います。そして桜の苗木が町役場から届いた記憶です。苗木の大きさはといえば、高さが約2m、太さは直径2~3cmだったと思います。

 因みに、「緑の週間」は1948(昭和23)年から今日に至るまでに度々変遷してきております。最初の制定は1948(昭和23)年で、4月1日~7日の一週間。その後40年を経て1988(昭和63)年、4月29日を「みどりの日」に制定するのに伴い、4月23日~4月29日を「みどりの週間」とすることになりました。さらに、2007(平成19)年4月29日が「昭和の日」になるのに伴い、「みどりの日」が5月4日に変更され、「みどりの週間」を廃止して4月15日~5月15日を「みどりの月間」を設けることになったとのこと。

 話を元へもどして、町から戴いた「ソメイヨシノ」数本は一応活着してかなり成長した記憶ですが、その後台風で倒れたり虫害に襲われたりして枯死し、補植。鐘楼を挟んで南北にある1本ずつが高齢健在。特に南側の1本は元気溌剌、枝張りの直径が20m以上はありましょうか、道路の上まではみ出しています。北側の1本も台風で中心幹が折れたにも拘わらず花がビッシリ、重厚な枝振りをみせております。

 当山は海抜8mの段丘上に立地しているため、寺務所3階の窓からは“下界”の風景が手に取るように見えます。東の方角をみると眼下に旧県道、100mほど先に国道、そして500mほど先方には田んぼの中に間道、更にその先に目をやると約1kmのところに国道バイパス。それぞれの道には右に左にひっきりなしに行き交っています。特に自動車部品を運ぶ大型トラックが目立ちます。

 ということは、逆にそれぞれの道を走る車からも当山の桜が見えているはず。寺域から100mほどの距離を置く国道沿線には、ガソリン・スタンド、建築店、バイク屋、喫茶店、フラワー・ショップ、レンタル・ビデオ店、電器スーパー、寿司店等々が両側に立ち並んでいます。そうした店舗のパーキングやの駐車場から当山の境内・伽藍を見てみました。予想どおり本堂の大屋根の手前に桜花の絨緞がふわふわと敷き詰められた感じ。まさに「春爛漫」。

 桜といえば52~53年前の"荘川桜移植譚"のことを思い出します。大学卒業間近のころ、同級生の市村博之君が憔悴しきった表情をしていました。失礼、ちょっと大げさかな? 彼は岐阜県大野郡荘川村の光輪寺のご子息。折しも電源開発が御母衣ダムを建設することになり、光輪寺はダム湖底に沈む水没予定地となったのです。先祖代々の地を追われ他の地へ移転しなければならない。住民達は熾烈な反対運動を展開。

 1952(昭和27)年6月、水没対象となる230戸は「御母衣ダム反対期成同盟」を結成し一致団結して反対運動を立ち上げました。電源開発は同年11月より交渉を開始すると同時に工事用地の買収に取り掛かりました。同盟会はこれに反発し反対運動は激化。ところが反対運動の先鋭化を疑問視する住民達が現れ、56戸の住民が同盟会を脱退し交渉に応じる姿勢を見せたのです。

 危機感を募らせた残る174戸の住民は一層の団結を図ろうと同盟会を改称。「絶対」と「死守」の語を加えた「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」を結成し一歩も引かない態勢を取ったとのこと。この「死守会」において先頭に立ったのは書記長に就任した女性住民の若山芳枝氏だったのです。移転保証交渉は一部の住民との間では進捗したり、一方では膠着状態に陥ったりして、国会でも取り上げられ難航。

 その後、第2次鳩山内閣も問題解決に乗り出し、国会でも御母衣ダムの補償問題等を議論。膠着状態を打開するため高碕達之助経済審議庁長官・電源開発初代総裁が現地を訪れ、「死守会」のメンバーと膝詰めで話し合い問題解決に取り組んだとのこと。その後も断続的に開かれた補償交渉ののち、足掛け7年にも及んだ補償交渉は1959(昭和34)年11月「死守会」の解散によって全て終了し、全水没世帯との補償交渉は妥結。

 翌年、御母衣ダム建設により水没する予定地を視察中、光輪寺の庭にあった巨桜を見た高碕達之助初代総裁は「なんとかこの桜を救えないものか」と、市井の桜研究家で「桜男」とも称された桜研究の権威笹部新太郎氏に移植を依頼。当初笹部氏はその困難さからこれを固辞したものの、総裁の熱意にほだされ結局は引き受けることに。

 桜移植の事前調査に当たるため同地を訪れた彼は、同様の桜の巨樹が照蓮寺にもあることを知り、この桜も移植することを提案し、2本同時に移植することに。移植工事は、世界的にも例がないといわれるほど大がかりなものであったうえ、樹齢400年以上という老齢とその巨体、更に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」といわれるほど外傷に脆弱な桜を移植するという難事業。可能な限り枝や根を落とした桜をダム水面上となる丘まで運搬し移植完了。

 今あらためて思い返すと、市村博之君はそうしたダム建設による移転補償交渉のまっただ中で卒業論文を書いていたのでしょう。そうそう、大学での講義の間に同種の「蜂の巣城紛争」の話を彼から聞いたことを思い出します。これは、大分県日田市と熊本県阿蘇郡小国町にまたがる、一級河川・筑後川水系津江川の下筌ダム建設にかかる紛争。1958(昭和33)年、建設省九州地方建設局は松原・下筌ダムの実施計画調査を開始。

 水没予定地に住む住民への説明会では、補償問題についての話はなく、ダム建設の必要性のみ。この説明に対して住民は建設省に不信感を抱き小国町は「建設絶対反対」の決議を採択。これに対し建設省はダム建設を早期に進めるため土地収用法に基づく立木伐採を行おうとしました。立木地主は建設省の強引な対応に態度を硬化、交渉断絶を宣言。住民の抵抗運動は更に加速し1959(昭和34)年、ダム建設予定地の右岸に砦「蜂の巣城」を建設。住民がここに常駐して監視を行うことに。

 その後幅広い反対運動が展開され、時には「反政府運動」の様相も呈し流血沙汰も。また、訴訟・控訴も繰り返され、“不落”を誓った「蜂の巣城」も初代が1963(昭和38)年6月、2代目が1965(昭和40)年6月、ともに代執行により“落城”。ダム建設絶対反対の町議会決議を採択していた小国町も条件付賛成に転向。代替集団移転地の造成が開始され、ダム本体工事も開始。そして13年の時を経て下筌・松原両ダムは1973(昭和48)年に完成。

 当山の満開の桜花から始まった桜談義が岐阜県大野郡荘川村の荘川桜や九州は日田の下筌ダムまで飛んでしまって失礼。「花の命は短くて」、3月31日に満開となった当山の桜花も数日過ぎれば葉桜となりましょう。華やかである一方短い命の桜花は、古来韻文や散文等いろいろな文書に儚さを象徴する素材として登場してきました。


   明日ありと
   思う心のあだ桜
   世半に嵐の吹かぬものかは
                   ―親鸞聖人―


   散る桜
   残る桜も
   散る桜
                   ―良寛和尚―

  合掌

《2013.4.3 前住職・本田眞哉・記

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