法 話
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大府市S・E氏提供 |
今年は5月末に気象台は早くも“梅雨入り宣言”。ところが、そのあと今日までに雨らしい雨が降ったのはわずか3回。ダム湖の水面は下がり、潅木の緑の下に黄土色の帯がうねっている様子がTV画面上に映し出されていました。湖畔には地元関係者が集い、「雨乞い」のために設えられた式壇上には山海の珍味と清酒が一本。このままの渇水状態が長引けば、農業のみならず工業関係にも、あるいは一般家庭の飲料水についても、水不足の影響は避けられないでしょう。
知多半島地域は山岳もなく大きな川もない丘陵地帯で、降った雨は背骨の丘陵地から西の伊勢湾、東の三河湾に短時間で流れ落ちます。そのため水源が乏しく、半島内にある何千何万もの溜め池などで雨水を溜めて渇水期にはその水を田圃に引いて稲を育て、稲が枯死するのを防ぎました。カラカラ天気が続き水不足状態になると稲が立ち枯れ、事態は深刻。「我田引水」とか「水争い」という言葉が現実味を帯びたと古老から聞いたことがあります。
こうした状況から一刻も早く抜け出さなければ…と考えた人は多かったと思いますが、太平洋戦争中は目前の「食料増産」のかけ声に追い立てられ、敵機の空襲から逃れるのに精一杯で、大局的に農業のあり方を考えた人はなかったようです。終戦後、1947(昭和22)年には大干ばつに襲われ、溜め池の水は枯渇し作物は枯れ大きな被害が出ました。深刻な食糧難に見舞われるなか、渇水による不作を防ぎ収穫量を増やすため、知多半島の潅漑事業を真剣に考える人々が現れました。
その中の一人が久野庄太郎氏。知多郡八幡村(現・知多市八幡)農家に生を享けた氏は、水不足で立ち枯れかかる稲を見て、水量豊かな木曽川の水を何とかしてこのカラカラの田圃へ引くことができないだろうかと真剣に考えました。そのことを新聞で知った幼年学校の教師・濵島辰雄氏が久野氏の許へ駆けつけ、協力を申し出ました。そして、測量士にも無理を言い、私財をなげうって用水新設のための事前調査にかかりました。他のパイオニア事業の発案者同様に、久野氏も変人・奇人扱いされたようです。
両氏はルート作成のため半島全土を歩き緻密な測量を行い、3か月後には愛知用水の計画図が完成したのです。彼の熱意が人々の心を動かし、為政者の重い腰を上げさせました。1948(昭和23)年知多半島1市25町の代表が集まり「愛知用水期成同盟会」を結成。濱島氏は高校教師を辞め末端水路を整備、久野氏は田畑を全て売り払って活動費を捻出。最初の課題は莫大な建設費。二人は当時の吉田茂首相に陳情し国の協力を取り付けました。1950(昭和25)年には世界銀行に融資を申し込み借り入れ成功。1955(昭和30)年には愛知用水公団が設立され事業開始。
1957(昭和32)年、水を溜める牧尾ダムと木曽川から水を取り入れる兼山取水口等の工事を開始。アメリカのエリック・フロア社から派遣された技術者と日本の技術者は、優れた土木技術と最新の土木機械を使い、わずか4年で工事が完成。1961(昭和36)年9月30日は、木曽川の水が110kmに及ぶ愛知用水を流れ知多半島へ届くという歴史的な日となりました。当時は農業用水が中心でしたが、今では都市用水が4分の3を占め逆転。開通当初と比較すると、現在の農産品の粗生産額や工業出荷額は6倍から10数倍、水道の給水人口は約6倍と飛躍的に増大しています。
さて話を現時点に戻して、前述のように三重県津市近郊の村では安濃ダム湖の貯水率が10パーセントを切ったとかで、何年ぶりかの「雨乞い」を行った様子が放映されていました。「雨乞い」は世界各地でも見られるようですが、共通点は人間の力ではいかんともし難い降雨を神仏の力を借りて実現しようとすることでしょう。イスラーム世界では、「イスティスカー」と呼ばれる降雨祈願があり、エジプトのマルムーク朝では13~16世紀に大規模な雨乞いが行われていたとのこと。
また、博物学者南方熊楠師氏によれば、モンゴルには鮓荅師(ヤダチ)と呼ばれる雨乞い師がおり、盆に牛の結石(鮓荅と呼ばれる)と水を入れ、呪文を唱えながら雨を降らせたという。一方、ロシアでも呪術師が雨乞いの儀式をしたとのこと。まず、三人の呪術師が神聖なモミの木に登り、一人目が釜や桶を槌で叩いて雷鳴をまねます。二人目は燃えさかる木の枝をぶつけて雷光のまねをし、三人目・最後の者が小枝で桶から水をまき雨のまねをするといった塩梅。
日本でも各地にさまざまな「雨乞い」が見られるようです。その形式は山野で火を焚く、神仏に芸能を奉納して降雨を懇願する、神社に参籠する等々種々あるようです。私が子どものころには、当地でも農家の人たちが「今年は雨が少なくて困った、これじゃ田植えができない。こうなったら雨乞いするしかない。」と話しているのを耳にしました。また、そうした“儀式”を目の当たりにしたこともありました。当山の境内地に隣接する「入海神社」でも雨乞いの神事がたびたび行われていました。
こうした「神だのみ」は、前述のように洋の東西を問わず、“神代の昔”からあったようで、人間の非力さの裏返しといえましょう。ただ、「雨乞い」などといった「神だのみ」は“人畜無害”といえるかも知れませんが、「丑の刻参り」などのケースは看過することはできません。丑の刻参りというのは、丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に殺したい相手に見立てた藁人形を毎夜五寸釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪術。
伝記などによりますと、行者は白装束を身にまとい、顔に白粉を塗り、頭に五徳(火鉢・囲炉裏などの熱源上に設置し、鉄瓶などを乗せる器具)をかぶってそこにローソクを立てる。そして一本歯の下駄を履き、胸には鏡、腰には護り刀、口に櫛を咥えて神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜五寸釘で打ち込むというもの。また、丑の刻参りをしている者の姿を他の人に見られると、本人に呪いが跳ね返って来るといわれ、目撃者も殺してしまわないといけないと伝えられているようです
まことに恐ろしい話ですが、明治時代には現に行われていた模様。自分の意に沿わない人物を抹殺するというのが基本理念のこの宗教?儀式、何ともはやコメントのしようがありません。しかし、こうした類いの行為は、我々普通の人間でも知らず知らずのうちに“実行”しているかも知れません。太平洋戦争中、私は小学校3年生でしたが、「米英撃滅」「撃ちてし止まむ」といったスローガンを謳ったポスターや檄ビラを至る所で目にしていました。新聞紙上でも戦意を鼓舞する文言が躍っていたことを思い出します。
「一億一心」となって戦争に勝たなければならないと国民を洗脳するためには必要なプロパガンダであったのでしょう。しかし、よくよく考えてみれば、「アメリカ軍とイギリス軍を討って滅ぼしてやろう」のスローガンの裏には、一億の国民が心を一つにして米英人の命を奪おう、と呼びかけているのです。そのために氏神様で「武運長久」を祈り、在郷軍人会が中心になって出征兵士を送り出したのです。たまたまその場で聞いた出征兵士の言葉は「ルーズ-ベルトの首を取ってくるからな!」でした。
当時の価値観は「人殺しをすれば勲章がもらえる」。何ともはや、まさに「顛倒の妄念」。その価値観が学校教育に於いても、社会教育に於いても、家庭教育に於いても正々堂々と最高のものとしてまかり通っていたのです。それが1945(昭和20)年8月15日をもってひっくり返ったのです。硯で墨をすって筆に含ませ、先生の指示に従って教科書の部分々々を塗りつぶしました。今まで最高の道徳、最高の倫理、最高の名誉、最高の規範と教えられてきたフレーズは墨の彼方へ。
ことほど左様に、人知による価値観はあくまで相対であって、絶対のものではなく、時の縦軸、場合の横軸によって有為転変するのです。この世の中の事物一切は、因と縁が仮和合して仮に存在しているのに過ぎず、常に移り変わっていくはかない存在なのです。このことは国家社会のレベルから個人のレベルに至るまで、あらゆる存在に厳然と冷徹に貫く真理なのです。この伝によれば、前述の太平洋戦争の敗戦、その後の民主社会への大転換も驚愕に値しない、因縁仮和合の真理の前では至極当然といえましょう。
大乗仏教の旗印「三法印」は、「諸行無常」(全ての作られたものは無常である)「諸法無我」(全てのものは実体がないものである)「一切皆苦」(全ての作られたものは苦しみである)。この家は厳然と今ここにあり、いずれは朽ちるかも知れないが30年や50年は大丈夫だ…。一般的な考えですが、“すべてのものは常ならず”津波に襲われて流失という可能性も捨てきれません。物も人も因縁仮和合の娑婆で生かされているわが身、仏さまの教えではいつ逆縁に見舞われても不思議ではありません。今戴いているご縁を大切にして常に感謝の念を抱いて日暮らしをしたいものです。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
『平家物語』
合掌
《2013.6.18 前住職・本田眞哉・記》