法 話

(149)すべての子に教育を 

 

 

   



大府市S・E氏提供
           


「すべての子に教育を」
 
 

     


 
 
 標題は、去る7月21日付『中日新聞』「ジュニア中日」欄の見出し。記事はマララ・ユスフザイさんのこと。関連記事は、同じく『中日新聞』の13日付夕刊と14付朝刊にも掲載されていました。マララさんは、パキスタンの16歳の少女。女子教育の権利を求めて活動していましたが、昨年10月下校途中、スクール・バスに乗り込んできたイスラム過激派の銃撃を受け負傷。イギリスに搬送され何度も手術を受けて奇跡的に回復。現在はイギリスの高校に通学しています。

 そのマララさんが、16歳の誕生日を迎えた7月12日、米ニューヨークの国連本部で演説。その内容は「過激派は本とペンを恐れている。教育の力は彼らを恐怖に陥れる」「我々は平和と教育の実現という目標に向かって歩み続ける」というもの。子どもに教育の機会を与えることの重要性を訴えたのです。マララさんが海外の公の場で演説するのは初めてとのこと。世界中から多くの支援が寄せられたことに感謝するとともに、「私は過激派を憎んではいない。過激派の子ども達を含むすべての子どもに教育の機会を与えてほしい」と訴えたとのこと。テロや貧困の唯一の解決策は教育にあると強調。
 

 ところで、イスラム教過激派とはどんな教団・集団なのでしょう。イスラム教過激派ターリバーンは1994年頃内戦が続くアフガニスタンにおいて台頭。マドラサと呼ばれるイスラム神学校の学生たちを中心としたターリバーンが快進撃を続け、軍閥を追い散らし治安を安定させ秩序を回復するようになったので、住民たちは当初ターリバーンを歓迎。当時、アフガニスタン市民、長年にわたる内戦とそれに伴う無法状態、軍閥たちによる暴行・略奪などにうんざりし、絶望感を抱いていたので、治安を回復するターリバーンの活躍に期待しまし。 しかしその後、ターリバーンがイスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちはターリバーンに失望するようになったのです。

 因みに、パキスタンの教育制度は5・3・2・2・2・2制で義務教育制度はない。公立の小・中・高校には希望すればだれでも入学は可能であるが、就学率はきわめて低い。この傾向は地方に行くほど顕著に。近年、親の教育に対する意識も少しずつ高くなってきてはいるが、親自身が教育を受けていない者が多いため、何をしたらよいのか、わからないというのが実情のようです。10年ほど前のデータでは、小学校(1学年~5学年)の就学率は68.5%。中学校(6学年~8学年)では23.5%。さらに、高等学校(9学年~10学年)となると2.8%。識字率(15歳以上)も49%と低い。単純比較はできませんが、日本の明治時代半ばの教育状況に相当するのではないでしょうか。

 日本では、1872(明治5)年に学制が頒布され小学校の義務教育がスタート。しかし、授業料が高かったため就学率はあまり伸びず、1890(明治23)年代前半では50%(男女平均)どまり。その後1900(明治33)年に授業料が不要となって就学率は上がり、1902(明治35)年には90%超。なお、明治政府が目指した教育政策の眼目は「自今以後一般ノ人民 華士族卒農工商及婦女子必ス邑ニ不學ノ戸ナク家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」だったのでしょう。【『學事獎勵ニ關スル被仰出書』(學制序文):太政官布告第二百十四號(明治五壬申年八月二日)】

 ところで、学制頒布前の日本の初等教育を担ったのはどこだったのでしょう。それは「寺子屋」。教育内容は「読み・書き・そろばん」。学制が頒布されたのを受け、その寺子屋を礎として、石浜・緒川の2村が協同して緒川の乗林院に「(ごう)学校(がっこう)」を開設。そして1875(明治8)年、「鄕学校」は了願寺に移設され、校名も「(こう)(きょう)学校(がっこう)」に改称。私の祖父で当山第14世住職の本田賢道は、弘教学校の教員に任用されました。1875(明治8)年発令の辞令には「第六番中学校区第廿四番小学弘教学校訓導試補申付候事 但月給金三円五十銭 愛知県」と記載されています。祖父が、我が国近代教育の嚆矢(こうし)の一端を担ったことを、孫の私としては誇りに思っています。    

  合掌

《2013.8.1 前住職・本田眞哉・記

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