法 話

(151)吉良日を視ることを得ざれ 

 

 

   



大府市S・E氏提供
           


「吉良(きちりょう)(にち)視ることを()ざれ」




      

 トヨタ自動車の豊田英二最高顧問が去る917日亡くなられました。行年満100歳。奇しくも同社の最高級セダン名「CENTURY」とピタリ一致。まさに天寿を全うされました。翌18日には名古屋市千種区の覚王山日泰寺で密葬が営まれ、トヨタグループの歴代首脳が参列して「中興の祖」に別れを告げました。一般向けの「お別れの会」は後日開かれるとのこと。

 豊田英二氏といえば、20年ほど前のことが思い出されます。1994(平成6)年226日、当山の門徒で名古屋市南区にあるオハラ樹脂工業株式会社の社長・尾原敏夫氏のご令閨が亡くなられ、32日に真宗大谷派名古屋別院(東別院)で葬儀が執り行われました。私が導師を勤めさせていただきましたが、1,000人に垂んとする会葬者が弔問し焼香されました。

 葬儀並びに告別式も終了し、ご遺体は霊柩車に収められ八事の火葬場へ。私も同道させていただきました。その時乗せていただいたのがトヨタ自動車株式会社の豊田英二名誉会長専用車のCENTURY。名誉会長とともに後部座席に座して八事まで同道。車中でどんな会話をしたかは記憶にありませんが、豊田英二氏の貫禄と迫力に圧倒された印象だけは残っています。

 到着した八事火葬場は、人・人・人で大混雑。折しもこの日、32日は「友明け」。「ええツ?それ何?」といぶかるムキもおありかと…。いささか説明を加えましょう。カレンダーの日付の下に「大安」とか「仏滅」とか「友引」とかいった日柄が書き込まれています。ビジネス・ダイアリーなどでも同様に日柄が刷り込まれているのが多いようです。

 この「日柄」は中国伝来の暦法に由来した学説であるとおっしゃるムキもあるようですが、私は全く信じません。迷信の類いに過ぎないと思っています。ご門徒の方が新しくお内仏(仏壇)を設けられるときに、この日柄を気にされます。仏壇開扉式(お入仏式)の日時の打ち合わせの折に気にされるのがこの日柄。大安の日でないといけないとか、先勝の日ならば午前中がいいとか。いや、日柄云々は施主様本人でなく、納入する仏壇屋の意向が強く働いていると思われますが…。

 一般的によく使われている日柄は、大安・仏滅・先勝・先負・友引・赤口。これを「六輝」とか「六曜」とか呼ぶそうで、平安時代の運命学の創始者・安倍晴明が中国から持ち帰り日本に広めたとされています。そして、日柄にはそれぞれ吉凶禍福の意味があるようで、起工式や落慶式等々にはそれぞれの内容に照らして、「吉」「福」の日を選ぶということのようです。

 一般的に言い伝えられているのは、大安は“大安吉日”というように、祝い事に吉とされる日。したがって結婚式の予約に関しては“激戦日”。しかし、現実の離婚率は増加傾向とか、はてさて。逆に仏滅は最大の凶日で大安の正反対。赤口は厄日。ただし、正午だけは吉とか。先勝は、文字どおり先んずれば勝つで、午前中は吉のようです。

 前出の友引はといえば、友を引くということで、婚礼・開店などは良い日のようです。ただし、葬式で友を引くのは良くないということで、葬式はこの日を外す習わしが受け伝えられているようです。当地方の公営の火葬場も友引の日が休業日でしたが、最近は撤廃されました。しかし、現実は友引の日の葬儀・火葬は殆どない模様。となると、「友明け」の火葬場は大混雑。

 元来、仏教をはじめとする日本人の宗教は、日常の吉凶禍福を左右する力を持つ「霊」を「カミ」として祀ることにより凶禍を免れ、吉福を招き寄せる除災招福の営みでした。しかし、我が宗祖親鸞聖人は、こうした吉時良日を選び、吉凶禍福を祈ることを徹底的に否定されました。聖人は9歳で得度し、大乗菩薩道の根本道場である比叡山延暦寺へ入山。懸命に修学に励みましたがなかなか光が見えてきませんでした。

 当時の比叡山での修学は、現実生活とは無関係な学問であり、また自らの修学の世界に閉じこもる僧達が多く、聖人にとってはよしとしませんでした。聖人は、大乗菩薩道の根本道場である比叡山の実態は、現実とほど遠い学問の場(観念化)と現世の祈祷(世俗化)の場に成り果てたと嘆かれました。そして上山修行20年、求めるものが得られず下山を決意し、道を求めて六角堂に参籠。

95日目の暁、聖徳太子の夢告を受けて法然上人のもとへ。法然上人の教えを受けて遂に求めていた真実の教えに出合うことができました。その教えこそ南無阿弥陀仏・本願念仏の教え。聖人の開かれた教えは、“出藍の誉れ”と申しましょうか、お師匠さんの法然上人の教えからさらに一歩進めた、非常に高度な教義です。まさに「百尺竿頭進一歩」といったところでしょうか。

 吉時良日を選び吉凶禍福を祈ることを徹底的に否定された文言を、聖人の著作の中から引用して以下に記します。


     かなしきかなや道俗の

     (りょう)()吉日(きちにち)えらばしめ

     天神(てんじん)地祇(じぎ)をあがめつつ

     卜占(ぼくせん)祭祀(さいし)つとめとす

 

     かなしきかなやこのごろの

     和国の道俗みなともに

     仏教の威儀(いぎ)をもととして

     天地の鬼神(きじん)(そん)(きょう)

 

五濁増のしるしには

     この世の道俗ことごとく

     ()()は仏教のすがたにて

     内心外道(げどう)()(きょう)せり

                              『愚禿悲嘆述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)

 

     ()(どう)(つか)うることを()ざれ

     天を拝することを得ざれ

     鬼神を(まつ)ることを得ざれ

     吉良(きちりょう)(にち)()ることを得ざれ

                              『顯浄土方便化身土文類(けんじょうどほうべんけしんどもんるい)()

  合掌

《2013.10.3 前住職・本田眞哉・記

  to index