法 話

(157)此岸から彼岸へ 
 

 

 

   



大府市S・E氏提供


   

此岸から彼岸へ

  

 


春のお彼岸も過ぎ桜花満開、春爛漫の好時節となりました。ところで、「お彼岸」の由来・仏事の意義はどこにあるのでしょうか。今さら言うまでもないことですが、春のお彼岸は321日のお中日を中心として前3日後3日の7日間。秋のお彼岸も923日のお中日を中心としての1週間。いずれのお中日も太陽が真東から昇り真西に沈む。このことは仏教の「中道の教」とピタリ一致するとともに、浄土教の「西方浄土」を願う信仰とも相呼応して日本独特の仏教行事が生まれました。日本で初めて彼岸会が行われたのは806(大同元)年と伝えられていますので、以後1,200年余にわたり続けられている伝統的仏教行事といえましょう。

仏事彼岸会の基本的概念は(とう)彼岸(ひがん)(彼の岸に到る)。「()(がん)」から彼岸(ひがん)」に到る。この世・穢土(えど)・娑婆からあの世・浄土・仏国に到る。仏教伝来から数百年、難行・苦行に耐えて正覚を得る僧も少なくなり、日本の仏教界は世俗化と観念化の両極の淵に陥ってしまいました。具体的には現実の生活とは無関係な学問の場…観念化。それに対して現世を祈る祈祷…世俗化。仏法を以て人々を苦悩から救う大乗菩薩道の根本道場であるはずの比叡山延暦寺に於いてすら、この傾向は顕著でした。

そうした状況下で注目を集めだしたのが「浄土教」。その教えを端的に表わすフレーズが「厭離(おんり)穢土(えど) 欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)」。苦悩の多い(けが)れたこの世を(いと)い離れたいと願い、心から(よろこ)んで平和な極楽浄土を(こいねが)うことです。これは源信(げんしん)()(しん)僧都(そうず)作『往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』の中にある語句。源信僧都は親鸞聖人が選定された浄土教の七高僧(祖)の第六祖。因みに七高僧とは、「三国七祖」といわれるように印度・中国・日本の三国の七人の高僧。具体的には龍樹(りゅうじゅ)(てん)(じん)(印度)曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)善導(ぜんどう)(中国)源信(げんしん)(げん)(くう)(日本)の七高僧。

親鸞聖人のライフ・ワーク『教行信証』「行巻 」の末尾には、聖人撰述の七言百二十句より成る偈文『正信偈』が所収されています。聖人は、この正信偈』の中で具に七高僧の信心の歩みと証を賛嘆されています。因みに、この『正信偈』は、蓮如上人のころより始まった朝夕の勤行に依用されることになり、真宗門徒の家庭においてその慣習は続けられ、現在に至っております。なお、本堂内陣正面向かって右端(北余間)に掛けられている掛軸にはこの七高僧の肖像が描かれています。

 ところで、日本における浄土教の発祥の発端は何だったのでしょうか。それは「末法思想」。折しも末法到来の声が巷に溢れ、人々は到来するかもしれない暗黒の世界に戦々恐々だったのでしょう。10円硬貨の表面には、宇治の平等院がデザインされています。平安建築そのものの寺。つい先日阿弥陀堂(鳳凰堂)の大修復が一部完了し外観の写真が報道されました。この寺は末法到来の年1052永承7)年を前にして関白・藤原頼通が建立。人々は末法の世から逃れようとして阿弥陀如来にすがり、浄土に導いてくれるよう願ったのです。

そもそも、その末法到来の「末法」とは何ぞや、といぶかる向きもおありか、と。下世話な話では「世も末じゃ」などということも…。その元を尋ねると「正法(しょうぼう)像法(ぞうほう)末法(まっぽう)」の三時説。では、その三時説の中身とは? 時代が下るにつれて仏の教えが次第に衰え、仏法滅尽の世が訪れるということ。具体的には次の通り。

三時説
  正法の時代釈尊滅後500年=(きょう)行証(ぎょうしょう)の三法が完全に存在する時代
  教=仏の教えがある 行=教えの通り修業する者がいる 証=さとりを開く者がいる

 
像法の時代次の1,000年=像とは似ているの意味、像似の行の行われる時代
  教=仏の教えがある 行=行は行われるが真実の行ではない 証=さとりを開く者がいない

末法の時代その後の10,000年=教えだけあって、行も証も無い時代
  教=仏の教えがある 行=行を行う者がいない 証=当然さとりを開く者もいない
  

 -478               0         仏陀入滅後の仏教       1052

仏陀

正法の時代

像法の時代

末法の時代

教・行・証がある

教・行はあるが証はない

教はあるが行も証もない

 余談ながら、徳川家康15431616)の旗印は「厭離穢土 欣求浄土」。穢れた娑婆世界を離れ、清浄な国土へ往生することを願い求める。戦国武将とは思えぬ“安らかな”旗印。因みに、武田信玄の旗印は「風林火山」―疾如風 徐如林 侵椋如火 不動如山―。家康生みの母は()(だい)の方。於大の方は、当山所在地の緒川城主水野忠政の娘。14歳のとき、岡崎城主松平広忠に嫁ぎ翌年竹千代を出産。父は松平広忠。ご存じのとおり竹千代は徳川家康の幼名。長じて→松平元康→徳川家康。

 竹千代の父・松平広忠も、於大の父・水野忠政も共に今川系でしたが、水野忠政が織田信長と同盟を結び織田系へ。そのため松平広忠は於大を離縁。1560(永禄3)年松平元康(家康)17歳の時桶狭間の戦い」が勃発。駿河の今川義元対尾張の織田信長の戦い。25,000人と圧倒的な軍勢を引き連れた今川義元に対し、 その10分の1ほどともいわれる軍勢で立ち向かった織田信長が、今川義元を討ち取り勝利。松平元康(家康)高城主は今川勢であったが参戦せず、戦後岡崎の大樹寺へ。その負い目もあってか、松平家の墓前で前途を悲観して自害を試みる。大樹寺第13世登誉住職の説法「厭離穢土 欣求浄土」を聞き切腹を思いとどまり岡崎城へ。そして「厭離穢土 欣求浄土」旗印としたとのこと。

 さて話を元へ戻して(とう)彼岸(ひがん)」の道。迷いのない悟りの境地に至る道。大きく分けて二つの道があります。それは難行道と易行道。
  *難行(なんぎょう)(どう)(しょう)道門(どうもん)…自力によって成仏…自力の小舟…諸仏…仏の世界に到るために六つの修行が必要…六度行…六波羅蜜(ろくはらみつ)(Paramita)…悟りへの道
  ①布施…執着を離れて施しの行をする…財施・法施
  ②持戒(じかい)…仏の教えに従い正しい行為をする…仲良くする
  ③忍辱(にんにく)…苦から逃げず現実に立つ…頑張る
  ④精進(しょうじん)…できることを精いっぱい努め励む
  ⑤禅定(ぜんじょう)…乱れる心を静め平穏な心を持つ
  ⑥智慧…心理に目覚め、正しい道理に従う

()(ぎょう)(どう)浄土門(じょうどもん)…他力によって成仏…弥陀の大船…弥陀一仏…本願を信じ念仏申さば仏に成る(歎異抄)念仏(ねんぶつ)成仏(じょうぶつ)(これ)真宗(しんしゅう)」親鸞聖人が開かれた教えのエキス
それまでは難行・苦行に耐え抜いた人か、高僧に高額の寄進をして祈祷を頼む金持ち・貴族しか助からなかった。その難行・苦行の一例が「千日(せんにち)(かい)(ほう)(ぎょう)」。現在達成者は47名とか。途中で止めた場合は自害? そのために首吊りの紐と短刀を持っていくとか…。

それに対して、親鸞聖人の開顕された易行道・本願念仏の教えは宗教界に一大革命をもたらした。親鸞聖人は1173(承安3)41日斜陽の公家・日野有範家で誕生。9歳の時(しょう)蓮院(れんいん)門跡(もんぜき)出家・得度。この時「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」(親鸞聖人絵詞伝)と歌を詠まれたと伝えられています。聖人の感性の豊かさが覗われます。 

範宴少年、比叡山に入山し延暦寺で道を求めて懸命に修学(名の変遷…若松丸→(はん)(ねん)綽空(しゃっくう)(ぜん)(しん)→親鸞→(けん)(しん)大師)。伝教大師開山の比叡山延暦寺は大乗菩薩道の根本道場と思いきや、範宴少年が目にした延暦寺は奈良仏教と同様、現世利益の祈祷の場となっていたのです。青年僧範宴は道を求めて苦悶。比叡山延暦寺の実態に失望。「()()は仏教の姿にて内心外道(げどう)()(きょう)せり」(正像末和讃・親鸞聖人)叡山において20年にわたり厳しい修行を積まれましたが、青年僧範宴は自力修行の限界を感じるようになりました。

堂僧として比叡山で修行を積む中に仏道があるのか(出家)、山を下りて街に出て生きていく中に仏道があるのか(在家)。煩悶の末、遂に聖人29歳、建仁元年辛酉の暦、堂僧を勤めた比叡山を下りて六角堂に100日の参籠。その心境は「定水(じょうすい)()らすと(いえ)識浪(しきろう)(しき)りに動き、(しん)(げつ)(かん)ずと雖も(もう)(うん)なお(おお)」(歎徳文・存覚上人)95日目の暁、聖徳太子の夢告を受けて、すでに比叡山を下り巷で念仏の教えを説く源空(法然上人)を尋ねて入門。

「聖人二十九歳 隠遁(いんとん)のこころざしにひかれて 源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき」(御伝鈔・覚如上人)
そして「建仁元年(かのと)(とり)(れき) (ぞう)(ぎょう)()てて本願に帰す」(教行信証・後序)
かくして親鸞聖人は難行(なんぎょう)(どう)自力(しょう)道門(どうもん)から()(ぎょう)(どう)他力浄土門(じょうどもん)への一大転換を図られたのです。

合 掌


2014.4.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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