法 話

(16)「他力本願」

いささか旧聞で恐縮ですが、去る516日付けの全国紙4紙に、ある光学機器メーカーの全面広告が掲載されました。新製品の宣伝広告でしたが、その中のキャッチ・コピーに私の目は釘付けになりました。曰く「他力本願から抜けだそう」。その前段にも「三日坊主から抜けだそう」。

 一般的にはさらりと通り過ぎてしまうフレーズでしょう。しかしながら、親鸞聖人の流れをくむ真宗門徒のひとりとして、私の目線はそこでコツンと止まってしまいました。「エッ?何だこりゃ」。

 浄土真宗本願寺派(お西)では、翌17日早速広報部長名で光学機器メーカーに抗議・要請文を提出したとのこと(『本願寺新報』)

抗議・要請文は、「…『他力』とは、世間で言う自力・他力という意味ではなく、そのいずれをも超えた阿弥陀如来の力を表す言葉です。浄土真宗では、この言葉を宗教的に重要な言葉として大切にし、伝えてきました。本来の意味を無視した『他人まかせにする』という意味での使用は、私たちがこの『他力本願』の教えによって力強く生きていくことと、全く反対の生き方を示すこととなり、このたびの貴社の広告は『他力本願』を根幹とする浄土真宗のみ教えを否定し、侮蔑・嘲笑することになります。…」という内容。

 そして同23日には、本願寺派総長名で再度会社に申し入れを行っています。その要旨は@広告掲載各紙に、同広告の取り消しと謝罪の意の表明A『本願寺新報』への謝罪広告の出稿B本願寺派主催の「他力本願」学習会へ同社関係者の参加を求める、といったもの。

 元来、本願寺派(お西)はこういった仏教用語誤用への対応が実に俊敏です。かつて1968(昭和43)年、当時の倉石農林大臣が国会答弁で「親鸞のような他力本願では国は守れぬ」などと発言。早速大臣に抗議するとともに、本願寺派僧侶の川野三暁参議院議員が衆院予算委員会で「他力本願」の意味を説明したことがあったそうです。

一方、わが真宗大谷派(お東)の対応は如何となれば、真宗教団連合で検討して抗議する方向とのこと。しからば、その真宗教団連合の動きは? 527日付で光学機器メーカー社長に対して抗議文を提出しました。抗議文の要旨は次の通り。

         

(前略)真宗教団連合は親鸞聖人を宗祖と仰ぐ真宗各派の連合組織であり、真宗教義である他力念仏すなわち本願他力回向の念仏を弘める活動を行っておりますが、さる五月十六日発刊の新聞に掲載されました貴社広告における「他力本願から抜けだそう」という表現について、看過できない事態であり、ここに厳重に抗議するものであります。

そもそも「他力本願」とは、親鸞聖人がお示しくださった浄土真宗の根幹をなす言葉であり、その意味は「仏の願いに生かされて力強く生き抜くこと」であります。誤って使用されることのある「他人まかせにする」意味とは全く逆であります。この言葉は、われわれ新宗教団にとってはよって立つ言葉でありますから、「他力本願から抜けだそう」という表現は、新宗教団を否定することであり、明らかにその教えをよりどころとする数多くの真宗門徒の心を踏みにじるものであります。

    われわれは今回に限らず過去にも,誤用に対し厳しく抗議を行い本当の意味を申し述べてまいりました。しかしながら、今回の件が貴社をはじめとする一般社会に対し本当の意味を啓発できなかったわれわれの課題であるとも受け止めますが、その反面、影響力のある新聞広告をもって掲載されたことは、本当の意味から逸脱した誤用を助長し、すべての人間にかけられた仏の願いを否定することになります。

  これは単にわれわれの属する教団の存在を否定するという問題にとどまらず、混迷を深める現代社会において、人間が本来持つべき願いを覆い隠してしまうことになるからです。(後略)

 要するに真宗教団のいのちである言葉「他力本願」の誤用に抗議したわけであります。確かに「誤用」でありますが、社会通念上からすれば一般の人びとの間には必ずしも「誤用」という認識がないのかも知れません。

 因みに、岩波書店の『広辞苑』を紐解いてみますと、

【他力本願】@阿弥陀如来の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。

A転じて、もっぱら他人の力をあてにすること。

 と記されています。さきの広告のフレーズはAの意味で使われたわけで、開き直れば「権威ある辞典に書かれている意味通り使って何が悪い」ということになりかねません。しかしながら、その言葉を使うに当たっては、第二義のみならずオリジナルである第一義への配慮・確かめがあってしかるべきだと思います。

 なお、真宗教団連合の抗議に対して、光学機器メーカーと取り扱い広告会社は「配慮不足」だったと後日お詫びの意を表明しております。その要旨は、「認識不足により配慮を欠いたことを深くお詫び申し上げます。今後再び同じような問題を起こさないように社内のチェック体制を見直します」というもの。

 他にも仏教用語「誤用」の卑近な例の一つとして「往生(おうじょう)」があります。「往生」の本来の意味は、「往生というは浄土にうまるというなり」と『尊号銘文(そんごうめいもん)』にあるように、閉塞状態から転じて、新しい真の平和なすばらしい世界に生まれ変わる、というポジティヴな意味です。

 しかしながら、一般的には「どうにもしようのないようになること・閉口すること」というようにネガティヴな意味に使われています。ある辞書には「英語が通じなくて往生した」などという例文が示されています。本来の意味とは正反対の意味の用法が市民権を得ているといえましょう。

 「立ち往生」に至っては何をかいわんや、といいたいところ。公共放送でも堂々と「事故のため電車が立ち往生しました」。弁慶が立ったまま死んだという「弁慶の立ち往生」が語源のようですが、これまた「生」が「死」へと全く反対の意味に転化して堂々とまかり通っているわけです。

 ことほど左様に、仏教用語が第二義だけで通用し続けると、本来の意味の第一義は埋もれてしまって、仏教の教えそのものが誤った意味に受け取られ、否定されかねません。となったら、ゆゆしき問題ではないでしょうか。合掌。【次回へ続く/2002.6.28.住職・本田眞哉・記】

     

  to index