法 話

(162)本尊 
 

 

 

   



会館正面の法輪


本尊

  




先月の本欄で記しましたように、当山・了願寺の本堂に安置されている本尊は、阿弥陀如来の立像です。本尊は、その寺の属している宗派によって決められています。他宗派の中には、個々の寺院により本尊が異なっているケースもあるようです。釈迦如来や大日如来や薬師如来であったり、観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)文殊菩薩(もんじゅぼさつ)弥勒菩薩(みろくぼさつ)であったりして色々。しかし、我が真宗大谷派では本尊は阿弥陀如来一仏。宗派の憲法である『真宗大谷派宗憲』第9条には「本派は阿弥陀如来一仏を本尊とする。」と謳われています。

また、了願寺の寺院規則第4条には、「この法人は、その包括団体の規程たる真宗大谷派宗憲により、宗祖親鸞聖人の立教(りっきょう)開宗(かいしゅう)の本旨に基づいて、教義をひろめ、儀式行事を行い、門徒を教化育成し、社会の教化を図り、その他その寺院の目的を達成するための、堂宇(どうう)その他の財産の維持管理その他の業務及び事業を運営することを目的とする。」と規定されています。したがって、当山の本堂に安置する本尊は、当然阿弥陀如来一仏ということになります。

本尊は、寺にとっては文字どおり“本当に尊い”存在です。万が一の場合、何はさておき安全を確保しなければなりません。火事の場合も災害の場合も。伝聞のこととてその真偽は定かではありませんが、こんなエピソードも。数十年前のこと、さほど大きくない寺の住職が余り聞こえのよくないところで“お遊び”。自坊が燃えているという噂が届き、急遽帰坊されるかと思いきや、慌てることなく骨董屋へ。自坊の本尊に相応しそうな古仏を求め、抱っこしてタクシーから降りられたとか。かなり肝っ玉の大きいご住職だったようで。

1945(昭和20)年3月ごろ、太平洋戦争もかなり戦況悪化。本土空襲も盛んになり、B29の編隊が上空を通過するのも度々。名古屋市の中心部から南へ30㎞ほどの当地では、直接空襲を受けることはありませんでした。しかし、警戒警報が発令されれば白熱電灯の笠に黒い布のカバーを下げ、巻き脚絆に防空頭巾で身支度をし、空襲警報発令となれば防空壕へ逃げ込みました。昼夜を問わず…。翌朝、防空壕へ持ち込んだ布団などを回収に行った時、境内のあちこちに紙の燃えかすが墜ちていました。経文が印刷された紙の燃え残りや、炭状になった紙にさらに黒い印刷文字が読み取れるもの。名古屋市内のお寺が空襲で焼けたのでしょう。

話が脇道に逸れてしまったように思われるかも知れませんが、要は“空襲と本尊さんを抱っこ”についてお話ししたいのです。1944(昭和19)年12月13日の名古屋市東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機工場の空襲を皮切りに、翌年3月ごろには爆撃機数も回数も増え、12日には東別院も罹災。その頃から当山の本尊・阿弥陀如来立像も“疎開”。疎開といっても山間部等へご移徙(いし)したのではなく、本堂内陣中央の(しゅ)()(だん)上の阿弥陀如来像を台座から外して後堂の法蔵長持へ。当時の住職は既に死亡していたので“(ぼう)(もり)”(私の母)が本尊さんを抱っこして、長持の中の布団綿の上にお休みいただいたことを今でも鮮明に覚えています。空襲で焼夷弾が落ちてきたら、本尊さんをいち早く布団綿にくるんで抱っこして避難しようという目論見。

近隣の町外れに爆弾や焼夷弾の“誤爆”があったものの、我が了願寺は空爆を免れました。ただ、グラマン戦闘機(艦載機)が超低空で飛んできて、当山の南方約1㎞の障戸川辺りで馬を連れて歩いていた人を銃撃。咄嗟にその人は橋の下へ逃げ込んで馬ともども助かりました。つい10年ほど前まで、コンクリートの橋の欄干に機銃弾で撃たれた痕が残っていました。戦闘機はそのまま超低空で北上し、当山の北100mほどの所にある蓮華(れんげ)(きょう)(あん)を銃撃。壁には弾痕が永らく残っていたとのこと。それは1945(昭和20)7月15日のことでした。それからちょうど1か月、8月15日正午にあの“玉音放送”が日本全国に流されたのです。私は小学校3年生でした。

“大東亜戦争”も終結し空爆の恐れもなくなったため、本尊さんを長持から須弥壇上へ。本尊阿弥陀如来立像の足の裏には2本の?(ほぞ) があり、その?を須弥壇上の蓮台の?穴に差し込んで安立戴くという寸法。母は健気にも全身全霊を打ち込んで無事安立に成功。我が真宗の本尊・阿弥陀如来は、正面から礼拝する分には余りはっきり分からないかも知れませんが、体を心持ち前かがみにして左足を少し前に出していらっしゃいます。このお姿は、私たち衆生が救いを求めて如来の元へ行くのを待つのももどかしく、衆生に向かって歩み寄る姿を表しているのです。

一方、1982(昭和57)年2月に竣工した了願寺会館の法話室には「法輪(ほうりん)」の本尊さんが安置してあります。この法輪、一見すると船の操舵輪。直径60㎝ほどでスポークが8本均等に配置され、全面金箔が押箔されています。8本のスポークは「八正道」を象徴しています。正道とは、お釈迦さまが最初の説法において説かれた、涅槃(ねはん)に至るための基本となる八つの正しい実践行。それは、①(しょう)(けん)(正しいものの見方)、②正思(しょうし)(ゆい)(正しい思考)、③正語(しょうご)(偽りのない言葉)、④正業(しょうごう)(正しい行為)、⑤(しょう)(みょう)(正しい職業)、⑥正精進(しょうしょうじん)(正しい努力)、⑦正念(しょうねん)(正しい集中力)および⑧正定(しょうじょう)(正しい精神統一)の、八つの道。八聖道ともいいます。

法輪の中央には金属製の黒色の浮き文字が設えられています。それは(ぼん)()を変化させたもので「キリク」といわれるもの。この一文字の意味するところは、無量寿仏・弥陀如来・観音菩薩等で、方角は西方に位置づけられるとのこと。そうしたところから、会館新築時に私の独断と偏見で法輪の中央にキリク文字を配置し本尊として尊崇することにしました。この法話室や書院・厨房を配置する「会館棟」と、玄関・トイレ・茶室等を新設する「玄関棟」(総建築面積276㎡:総事業費5,000万円)を記念事業として新築し、1982(昭和57)年4月18日「親鸞聖人御誕生八百年慶讃法要」を厳修しました。

設計作業が進む中で建築基準法が改正になったこともあり、また鉄筋コンクリート造ということもあって、予算面ではかなり厳しいところもありましたが、建築強度の点で現在問題になるところもなく、畳の表替えは別として、30余年を経た今日でも補修を要するところは殆どありません。おはこび戴いたご門徒各位の懇念がかくも有効に生かされているケースは少ないのではないかと自負しています。まことに有り難いことです。感謝の念一入であります。

合 掌

《2014.9.2 前住職・本田眞哉・記》

 

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