法 話

(163)本尊2」 
 

 

 

   



大府市S・E氏提供


本尊2

  

 前回は、了願寺会館法話室の本尊「法輪」のお話で締めくくりました。お釈迦さまが悟られた真理・真如の教え「仏法」を人々に話され弘められたお姿を、教えの輪を転がす様子に譬えて「(てん)法輪(ぼうりん)」と言います。お釈迦さまが悟りを開かれ、最初の説法をされたところは「初転法輪の地」と呼ばれています。「初転法輪の地インド最高の聖地ベナレスから北西に10㎞ほどの静かな森の中にあるサールナート。仏典では鹿野(ろくや)(おん)と記されています。

 お釈迦さまが生涯の中で過ごされたエポックメーキングな四つの地を「仏教の四大聖地」と呼びます。

①ルンビニー…生誕の地

②ブダガヤ…成道(じょうどう)(開)の地

③サールナート…初転(しょてん)法輪(ぼうりん)の地

④クシナガル…入滅(涅槃(ねはん))の地。

 

【1】生誕の地.ルンビニー。お釈迦さまは、インド国境から20㎞ほど入った、ネパール王国領土内のルンビニーというところで生まれました。父は釈迦族のスッドーダナ((じょう)(ぼん))大「浄らかなご飯をもつ」の意味)、母はマーヤー(摩耶(まや)夫人(ぶにん)であったと伝えられています。因みに、お釈迦さまという呼び名は、部族名「釈迦族に由来します釈迦牟(しゃかむ)()とも、釈尊とも呼ばれますが、その本名は「ゴータマ・シッダッタ」。お釈迦さまは、マーヤー夫人がお産のために実家に戻る途中、ルンビニーの園で誕生されたといわれます。

ルンビニーの花園で母親の摩耶夫人が、右手を上げると脇の下から赤ちゃんが生まれました。その赤ちゃんは、逸話によれば、生まれ落ちるとすぐに七歩歩いて、右手で天空を指し左手で大地を指して「天上(てんじょう)天下(てんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」とおっしゃったと。しかしお釈迦様の母マーヤー夫人は、お釈迦さまを産んで7日後に亡くなったと伝えられます。

現地に立つと、緒川仏教会が毎年小学生を集めて催しているお釈迦さまの誕生会「花まつり」でこのことをお話したことが思い出されました。私が1968(昭和43)年にルンビニーを訪れた時には、白い記念堂とアショカ王柱のみが建っていた記憶。ところが、インターネット上で見る最近のルンビニーの聖地は、建築家・丹下健三氏が策定したマスター・プランに基づいて整備されつつあり、40数年前とは打って変わって「永遠の光」のモニュメントや「釈迦が産湯をつかった池」等々が整備されつつあるようで、驚き。

 

【2】成道の地ブダガヤ。インド・ビハール州はガヤ県にあるお釈迦さまが悟りを開かれた地。その苦行がどのようなものであったかを、経典はくわしく説いています。たとえば胡麻の粉や草や牛糞までを食べるような厳しい節食の行。あるいは髭や髪を抜き取ったり、始終直立していたりうずくまっていたり、棘の床の上に臥すような苦行。あるいは森林にひそんで他人に接触しないような孤独の行などなど。また、多年にわたって身についた塵や垢がコケのようになっても、「ああ、わたくしはこの塵垢を手で払いのけようとは思わなかった」と、その苦行による憔悴を回想されています。
 しかしその苦行の結果、身がやせ衰えることはあっても、ついにさとりの智慧を得ることはありませんでした。なるほどこれほどの苦行は常人には出来ぬことです。そのような苦行を積めば、なにほどか汚れが落とされ、聖者や仙人に近づくことができるであろうという考えが、おそらく世間では流布していたことでしょう。しかしお釈迦さまは、そのような苦行は、なんの役にも立たないもの、なんの利益もないものであるとして、これを放棄されました。

 苦行をやめたお釈迦さまは、近くの村に住むスジャータという名の少女からミルク粥を供養されたといわれます。因みに、今日日本で市販されているスジャータというコーヒーフレッシュの商品名はこの故事から取ったとのこと。ミルク粥によって元気を得たお釈迦さまは、菩提樹の下に坐って瞑想をし、悟りを開かれたのでした。

あの時に見た、インド国鉄の駅名「GAYA」の文字が今でも脳裏に浮かんできます。あの有名な菩提樹と金剛(こんごう)宝座(ほうざ)と大塔も。お釈迦さまが世俗的な快楽の生活を捨てて出家され、有名な仙人などに悩みからの解放を求めて遍歴され6年余の苦行の末、ようやく苦悩から解放されたのはこの菩提樹下の金剛宝座。その日は128日。日本仏教でも毎年128日に「成道会(じょうどうえ)」の行事を執り行っているお寺があります。

 

【3】初転法輪の地サールナート。ブダガヤの菩提樹下で悟りを開かれたお釈迦さまは、悟られた「縁起の理法」を一旦世間の人々に説くのをためらわれたといわれています。お釈迦さまの悟られた真理は深遠で、見難く微妙であるため、執着にこだわる世の人々には理法を説いたとしても理解してもらえないだろうと危惧されました。ところが、インドの最高神である梵天が三度にわたってお釈迦さまに法を説くよう願い求めたといわれます。この懇請を受けて、お釈迦さまは世の人々のために法を説くことを決意されたといわれます。

 説法を決意されたお釈迦さまは、古来宗教上の聖地と見なされていたベナレスへ。ブダガヤからベナレスまではおよそ300㎞の道行き。お釈迦さまはなぜベナレスへ向かわれたのでしょう。ベナレスの郊外サールナートというところに、苦行時代の旧友5人がいたからだとか。この5人にまず法を説こうとされたのだろう思われます。この最初の説法を、初めて法の車輪が転じられたということで「初転法輪」と言います。そうしたことから、サールナートは「初転法輪の地」と名付けられています。この聖地には、高さ43m、周囲36m、円柱形2段の「ダーメークの塔」と5世紀に造られた「転法輪印」を結ぶ「初転法輪像」があります。これらについてはインターネット上で拝見できますが、40数年前この目に焼き付けた画像とズレはありません。

 

【4】ご入滅の地クシナガラ。ブダガヤで悟りを開かれた後、お釈迦さまはインド北部各地を説法行脚されました。4445年間布教伝道に生涯を尽くされたお釈迦さまも80歳という高齢に。王舎城から生まれ故郷のカピラヴァストへの旅に出られることになりました。その途上病に襲われ、苦しみながらマッラ国のパーパー到着。そこで法を説かれた後、チュンダという鍛冶工から食べ物の供養を受けたところ、激しい腹痛に襲われました。猛烈な下痢を発症しながらも、お釈迦さまはクシナガラを目指して出発。苦しい旅ののち、クシナガラに到着。お釈迦さまは弟子のアーナンダに次のように仰せられたとのこと。

   さあ、アーナンダよ、私のために二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい。

また、修行僧たちには、

もろもろの事象は過ぎ去るものである。おこたることなく修行を完成しなさい。

これがお釈迦さまの最後のことばであったと、経典は伝えています。仏教を開かれたお釈迦さまは、一人の人間として、安らかに最期を迎えられたのです。

 クシナガラは「釈尊入滅(涅槃)の地」。クシナガラには涅槃堂があります。その涅槃堂の正面には一対のサーラの樹が濃緑色の葉を茂らせていました。目をつぶれば、脳裏に焼き付いたその樹影が甦ってきます。堂宇そのものは今から数十年前にミャンマーの仏教徒が建てたコンクリート造ですが、中には金色の涅槃像が安置されています。いわゆる「寝釈迦」で、長さ(身長)6m以上、足の裏の長さが80㎝もある巨大な仏さま。頭を北に、顔は西向き、右脇を下にして寝ていらっしゃいます。まさに「()北面(ほくめん)西右(さいう)(きょう)」のお姿。荘厳さに圧倒されました。

卑近な話に飛んで恐縮ですが、亡くなられた方を安置する場合「北枕で…」といわれますが、その根拠はここにあるのです。頭を北に、右脇を下にして寝れば顔(面)は自動的に西(お浄土)に向くという寸法。わが宗門の最重要法要である御正忌・報恩講で拝読する『御傳鈔(ごでんしょう)』にも同じ文言が親鸞聖人のご臨終についての記載にも見受けられます。覚如上人は下巻の第六段に「聖人弘長二歳(1263) 壬戌 仲冬(ちゅうとう)下旬の(ころ)より、いささか不例の氣まします。自爾(それより)以来(このかた)、口に世事をまじえず、ただ(ぶっ)(とん)のふかきことをのぶ。声に()(ごん)をあらわさず、もっぱら称名(しょうみょう)たゆることなし。しこうして、(おなじき)第八日(うまの)(とき)北面西右()(たま)いて、ついに念仏の(いき)たえましましおわりぬ。」と記されています。

合 掌

《2014.10.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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