法 話
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![]() 大府市S・E氏提供 |
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真宗大谷派ご門徒のお内仏の本尊は、阿弥陀如来の木立像または阿弥陀如来絵像(掛け軸)。これは、わが宗派の憲法である『真宗大谷派宗憲』の第九条「本派は阿弥陀如来一仏を本尊とする」に則ったもの。寺の本尊の阿弥陀如来は殆どが木立像ですが、ご門徒のお内仏の本尊は木立像が2割、絵像が8割といったところでしょうか。木立像の方が尊くて、絵像は代用品である、という意味は全くありません。
お内仏の正面には、本尊の両脇に「お脇掛け」が掛けられています。向かって右側には、「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、左側には「南無不可思議光如来」。ペアで九字・十字名号と呼んでいます。十字名号「帰命尽十方無碍光如来」の出典は、インドの高僧・天親(世親)菩薩撰述の『無量壽經優婆提舍願生偈(浄土論)』。天親菩薩がこの中で、「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国」と著し、自己の信念を表したことに基づいています。
一方、左側「南無不可思議光如来」の出典は曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』。曇鸞大師が『讃阿弥陀佛偈』の中で、「不可思議光一心帰命稽首礼」と著され、自己の信念を表したことに基づいています。なお、こうした九字・十字名号をお脇掛けではなく、名号本尊として安置するケースもあります。例えば、特設の法話会場の正面とか、建物の新築起工式の式場正面とか。あるいは、学園講堂の舞台正面に名号を本尊として安置する方式も。因みに、私が以前理事長職をお預かりしていた、同朋学園の名古屋造形芸術大学の大階段教室の正面中央には九字名号の「本尊」。黒御影石の柱には、親鸞聖人の墨蹟に金箔を施した九字の名号が刻銘されています。
また、お内仏といった固定した環境ではなく、移動・仮設の状況下での本尊ご安置が必要なケースもあります。そうした状況に対応する法式としては「三つ折り本尊」があります。B4サイズ、厚さ2~3mmのボール紙を文字通り三つ折りにし、中央に阿弥陀如来のご影像、右に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、左に「南無不可思議光如来」を配したもの。中央の阿弥陀如来立像はもちろん、九字・十字の名号の下には蓮台が描かれ安立感が醸し出されています。
こうした三つ折り本尊を依用する具体的なケースとしては、災害現地での追悼法要、建築工事の起工式・上棟式法要、建碑式(墓開き)法要等々。また、熱心な真宗門徒の中には「携帯本尊」として身に着けていた方もかつてはいらっしゃったようです。家内の短大時代の同級生で北陸地方出身の方の中には学生寮の自室の机の上に三つ折り本尊を安置して日常生活を送っておられたとのこと。信心深い北陸門徒のご家庭で生を享けお育てを受けられたのでしょう。また、太平洋戦争に出征した兵士が懐中本尊として携行されたとの話も。
ところで、この三つ折り本尊の「三尊」は別々、夫々ではりません。表現は、絵像・九字名号・十字名号と夫々ですが内実はただ一つ「南無阿弥陀仏」に帰趨。この南無阿弥陀仏、元は梵語を音写したもの。検証してみましょう。
帰 命 無 量 寿 如 来 …親鸞聖人の正信偈初句
帰 命 尽十方無碍 光 如 来 …意味を日本語で表現
南 無 不可思議 光 如 来 …意味を梵語+日本語
南 無 阿 弥陀 (寿・光) 仏 …梵語を漢字で音写
ナモー ア ミター ユス・ブハー ブッダ …梵語をカタカナで表現
Namo a mita
yus・buha Buddha …梵語をローマ字で表現
帰依・頼む no+限=無量・無限 寿 光 仏 陀
無碍 不思議な
本願寺第八世蓮如上人の日頃のお言葉を記録した『蓮如上人御一代記聞書』には、「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』と云うなり。当流には『木像よりはえぞう、絵像よりは名号』というなり」と記されています。他流では釈尊存命時と同じように釈尊と対面して修行ということから、釈尊の本尊が多いようです。仏身を観念する「観念念仏」の宗派では本尊として仏像を重用しますが、 真宗では仏身観念はなく称名念仏が「正定業」なので、本尊は阿弥陀如来立像か六字・九字・十字の名号。
蓮如上人、仰せられ候「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」と。上人の時代は仏壇なし。蓮如上人は、長禄元(1457)年本願寺第八世をご継職。上人は「御文」による文書伝道や名号の下付など、独自の布教活動を展開。それによって本願寺の教線は大きく伸展。しかし、比叡山延暦寺衆徒の本願寺破却に遭い、親鸞聖人の御真影を奉じて各地を転々とされました。そうした布教活動の中で、名号本尊を掛け勤行・布教をし、終わったら本尊軸を巻いて収納して次の会所でまた掛け、という状況が目に浮かびます。
そうした上人のご苦労のおかげで本願寺教団が再生できたのです。蓮如上人いまさずば、今日の真宗教団の教線は望むべくもなかったでしょう。爾来500年、教線を拡大した本願寺教団は、危機感を抱きながらも時には改革運動に取り組み、連綿というフレーズがマッチするかどうかは疑問ですが、とにかく今日まで受け継がれてきています。しかし、21世紀に入り、人々の宗教意識は大きく変わってきています。宗教者としては人々の意識変革を敏感にとらえ対処していかなければならないと思うや切であります。
合掌
《2014.11.3 前住職・本田眞哉・記》