法 話

(165)本尊4」 
 

 

 

   



大府市S・E氏提供


本尊4」

 

本願寺第八世蓮如上人は、1415(応永22)年44日第七世・存如上人の長男として出生。6歳で実母と生別。幼名は布袋丸。蓮如上人幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比べて衰退の極にあったようです。1431(永享3)年17歳の時青蓮院で得度。父存如上人に教義を学び、近江や北陸の教化に尽力。1457(長禄元)年、存如上人没後の近江教化を推進しましたが1465(寛正6)年延暦寺宗徒による破脚に遭い、本願寺は大津南別所に移転。その後1471(文明3)年、越前吉崎に坊舎を建て教化拠点を開設。後の吉崎御坊。荒地であった吉崎は急速に発展。一帯には坊舎(ぼうしゃ)多屋(たや)(参詣門徒のための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていきました。

蓮如上人は、教学的には親鸞聖人・覚如上人・存覚上人の教説を継承して、直截で明快な教義体系を確立し、伝道に力を尽くしました。正信偈・和讃の刊行や「御文」の発信など独創的な伝道方式で教線を拡大。中でも「御文」による教化は「一文不知ノ尼入道」にまで届き、空前絶後の成果をあげました。「御文」は文字通り蓮如上人が発信された信心開発(かいほつ)の「お手紙」。親鸞聖人の説かれた教えを漢文ではなく、時機相応の平易な仮名混じり文でしたためて聞信徒に発信したのです。221通が伝えられていますが、1471(文明3)年から1498(明応7)年の間に発せられた58通と発信年次不明の22通、合計80通を集めて編集したのが「五帖(ごじょう)御文(おふみ)」。寺での厳修法要はもちろん、ご門徒の年忌・月忌・報恩講等の法要の折には現在も仏前で拝読させて戴いております。

真宗の要義を誰にも諒解(りょうげ)しやすいように平易懇切に説かれた、蓮如上人のこのユニークな文書伝道の開発は、当時としては実に画期的で、現代のインターネットにも匹敵するのではないかと…。時代は足利義政が八代将軍の室町時代半ば、学校はもちろん寺子屋もなく、漢文の読める人はごく僅か。カタカナ混じりの御文は一般大衆にアピールすることができ、信心歓喜の波は燎原の火のごとく、無学文盲の人たちの間にも広がっていったことでしょう。ソレ…、ソモソモ…、で始まり、アナカシコ アナカシコで結ぶ独特の文体。そうそう、アナカシコ アナカシコといえば、下世話な話で恐縮ですがエピソードを一つ。

当地方は自動車関連産業が盛んで、大企業から家庭に至るまで実に多くの工場・作業所が稼働しております。したがって、そうしたところで働く従業員も他市町から流入の方も数多。国内のみならずブラジルからの方も。数年前でしたか、九州地方から当地へ転居された方がある日来山されました。要件は先祖の命日にお参りしてほしいとのこと。宗派を確認しようとお尋ねしたところ、「よう分かりません」とのこと。「当山は真宗大谷派です、あなたのお家も同じですか」とお聞きしても首をかしげるだけ。「じゃ、曹洞宗ですか、浄土宗ですか、それとも日蓮宗ですか」と質問しても頷きがありません。しばらく沈黙の後「そうそう、アナカシコ アナカシコです」。“これにて一件落着!”

蓮如上人は当地方への巡化(じゅんけ)にも力を尽くされました。そもそも三河に一向宗(浄土真宗)が広まったのは古く鎌倉時代。親鸞聖人が関東より京への帰途、矢作(やはぎ)の地で布教されたのが始まり。戦国期に入り、蓮如上人が布教のため三河の地へ足を運び、教線拡大作戦を展開。巧みな布教活動によって有力寺院を一向宗・本願寺派(当時の)に転向させることに成功。その有力寺院とは「上宮寺(じょうぐうじ)」「本證寺(ほんしょうじ)」「(しょう)鬘寺(まんじ)」で、「三河三ヶ寺」と呼ばれています。三ヶ寺はそれぞれ200近い末寺を持ち、武士・農民などの門徒は三ヶ寺合わせて数千人にも及んだといわれています。

当山・真宗大谷派(東本願寺)受教山了願寺は野寺(のでら)愛知県安城市野寺町野寺26の本證寺(1206年頃創建)の下寺。本山から当山の講組に下付された「御消息(ごしょうそく)」の末尾には「本證寺(した) 尾州(びしゅう)知多郡(ちたごおり)緒川村(おがわむら) 了願寺○○日講中(法主名・法主印)」と記されています。毎月講勤め勤行の最後に拝読しておりますので、この文言は脳裏に焼き付いています。因みに、了願寺の創建は東西両本願寺の分派はより前。本願寺は第十一世顕如(けんにょ)上人の時代に、織田信長との戦い(石山合戦1570(元亀元)年~1580(天正8)年)に敗れ大坂を退去。この時、顕如上人の長男教如(きょうにょ)上人は、父と意見が対立し大坂(石山)本願寺に籠城。そのため教如上人は父・顕如上人より義絶されました。

1582(天正10)年に義絶を解かれ、本願寺は豊臣秀吉によって1585(天正13)年大坂天満に再興されました。さらに1591(天正19)年、現在の西本願寺・浄土真宗本願寺派の本山の寺域・京都堀川七条に移転。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺第十二世の職を継承しましたが、秀吉より隠退処分をうけ、弟(顕如上人の三男)の准如(じゅんにょ)上人が本願寺第十二世の職を継職することになりました。しかし、教如上人はその後も布教活動を継続。1598(慶長3)年に秀吉が没した後の1602(慶長7)年、徳川家康が京都烏丸六条・七条間の寺域を寄進。1603(慶長8)年上野国(現在の群馬県前橋市)の妙安寺(みょうあんじ)から宗祖親鸞聖人の御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂を建立。1604(慶長9)年御影堂を建立し、ここに新たな本願寺の創立を見たのです。これが大谷派の本山である「真宗本廟・東本願寺」の生い立ちであり、教如上人を「東本願寺創立の上人」とする所以です。

前回の法話を受け継いで、今回も蓮如上人関連の記載が主となってしまいましたが、主題の「本尊」談義に戻って文を締めくくりましょう。記録が無いので定かではありませんが、当山本堂の本尊「阿弥陀如来立像」は創建当時のものではないようです。室町時代初期の了願寺の前身は、天台宗「帰命寺」。天台宗延命寺(現・大府市)の下寺。良空法師が1522(大永2)年ごろ一向(浄土真)宗に転派して寺号も「了願寺」に改称。寺域も海岸から現在地(海抜10m)へ移転。もちろん本尊も本願寺様式の「阿弥陀如来立像」に替えられました。時は流れて天保年代半ば(1830年代)、過去帳の第十世良因法師の項には「本堂再建」の記載。この時本堂も大きくなりそれに合った本尊に替えられたものと推察されます。先人の努力に感謝申し上げるとともに、尊い仏法領の遺産を護持していかなければならないと思うや切であります。

合掌

《2014.12.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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