法 話

(168)涅槃会 
 

 

 

   



大府市S・E氏提供


涅槃会(ね はん え)

 

 215日は釈尊入滅の日。お釈迦(しゃか)さまの(にゅう)涅槃(ねはん)の日。ただ、今から2千数百年前のことでもあり、この入滅日については諸説紛々。一応、中国や日本では陰暦の215日をお釈迦さまが亡くなられた日としています。日本や中国の寺院では、この日に「涅槃会(ねはんえ)」が勤修(ごんしゅ)されています。涅槃会は釈尊の威徳を追慕・学習するとともに報恩感謝する法会(ほうえ)。当地では、曹洞宗の乾坤院様が毎年1か月遅れの315日前後の日曜日に勤修。当日は山内に露店が多数出て大賑わい。
 

 じゃぁ、釈尊はいつ頃どこで入滅されたのか、とのお尋ねもおありかと…。釈尊ご入滅の地は、インドのウッタル・プラデシャ州東端の村クシナガラ。ベナレスの北北東約180kmにある村。死期を悟った釈尊は、ビハール州の(りょう)鷲山(じゅせん)から生まれ故郷に帰る途中、この地でご入滅されたと伝えられています。釈尊の伝記の中で、最も克明に記録が残されているのは、ご入滅前の1年間の事歴とのこと。

 ご入滅1年前の雨季に、あの「祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘の声諸行(しょぎょう)無常(むじょう)の響きあり…」の祇園精舎で安居が開かれました。「安居(あんご)」とは何か?粗雑ながら概説してみましょう。それまで個々に活動していた僧侶が一定期間一カ所に集まって集団で修行・研修すること。また、その期間のこと。本来の目的は、雨期には草木が生え繁り、昆虫・蛇などの数多くの小動物が活動するため、外での修行をやめて一カ所に定住して修行し、小動物に対する無用な殺生を防ぐことにあったようです。因みに、真宗で拝読する『仏説(ぶっせつ)阿弥陀(あみだ)(きょう)はここで説かれました。序文に「舎衛国祇(しゃえこくぎ)珠樹給(じゅぎっ)孤独(こどく)(おん)と説法の場所が記されています。この精舎の名前は給孤独長者が買い取った園を釈尊に寄進したことに由来しているとのこと。
 

安居は後に雨期が来る夏に行うことから、「()安居(あんご)()安居(あんご)」とも呼ばれています。インドでは、415日から3か月間の雨季に仏教徒は外出せず、洞窟や寺院にこもって学習や修行に専念するとのこと。釈尊在世中より始められたとされるこの安居、仏教伝来とともに中国や日本にも伝わり、夏だけでなく「冬安居」も開かれた記録があるようです。日本ではA.D.683年、天武天皇のころ宮中で開かれたとの記録が散見されています。蛇足ながら、安居への参加回数が僧侶の昇進の基準になるとかで、非常に重要視された時代も。

その僧侶の昇進の基準ですが、専門用語でいうと「法臘(ほうろう)」。もともとは、仏教界において僧侶が比丘としての具足戒を受けてからの年数を数える単位。ところが、比丘の生活では、1年の期間を90日に及ぶ夏安居の期間が終わる715日をもって締め括るため、夏安居に参加した回数を「臘」と称した模様。その多少によって寺内における長幼の序が定められました。この「臘」という単語、2千数百年を経た今日の仏教界においても健在。
  

 わが真宗においても「法臘」「法臘加算」という文言が文書等に見受けられます。本来は受戒してからの年数をカウントするようですが、真宗では戒律がないため受戒もなく、得度(とくど)が規準になります。他宗派では、受戒すると毎年夏安居に加わるのが通例で、その回数が加算されます。年数の多少により序列を定め、一臘・二臘・上臘・中臘・下臘などの呼称があります。現在でも禅宗では修行僧が安居を行い、安居が明ける「()()」までの間は寺域から一歩も外へは出ずに修行に専念。
 

 話を元へもどして、舎衛国の祇園精舎での安居を終えた釈尊は、カピラヴァストに立ち寄ったのち、南下してマガダ国の王舎(おうしゃ)(じょう)に着きしばらく逗留。ここで浄土三部経の『仏説観無量寿経』を説かれた後、多くの弟子を従えて王舎城から旅に出立。ナーランダを通ってパータリ村に到着。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ、現在のパトナ。ここで釈尊は破戒の損失と持戒の利益を説法。パータリプトラを後にした釈尊は、増水していたガンジス河を無事渡りコーティ村に到着。
 

次に釈尊はナーディカ村を訪れ、亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら法の鏡について説法。次にヴァッジ国の首都ヴァイシャーリーに到着。アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説きました。やがてここを去ってベールヴァ村に入り、ここで最後の雨期を過ごすことに。釈尊はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちも安居に。この時、釈尊は死に瀕するような大病にかかったものの、雨期の終わる頃には気力を回復。
 

ところが、クシナガラに向けて歩を進め、生まれ故郷に向う途中に釈尊は80歳で亡くなられました。ヒランニャバッティ河のほとり、サーラ(沙羅)の林に横たわりそこで入滅。これを「仏滅(ぶつめつ)」といい「涅槃(ねはん)」といいます。釈尊が涅槃に入られた状況を「()()双樹(そうじゅ)の下、()北面(ほくめん)西右(さいう)(きょう)に臥し」と表現されていますが、その時の状況を端的に表わした文言。右脇を下に頭を北にすれば、顔面は自ずと西方浄土に向けられるということ。現在、当地方でも「北枕で寝るものじゃない!」と古老が言います。何故かといえば、息が途絶えた方を安置する場合は「北枕」、北枕で寝ると死人になると恐れたのではないでしょうか。
 

娑羅双樹といえば、今から46年前インドの現地を訪れた時のことを思い出します。それは釈尊の聖地巡拝の旅。1222日羽田発のJAL451便で出発。カルカッタでインドへ入国。マハボディ寺、日本山妙法寺などを訪問・参拝した後ネパールのカトマンズへ。市内の仏教・ヒンドゥー教寺院に参拝・見学。王宮を訪問した後プロペラ機でインドのパトナへ飛びインドへ再入国。パトナからは車でラジギールへ入り、ホテルで一泊。翌早朝、大無量寿経を説かれた霊鷲山へ。レストハウスで朝食を済ませ、ナーランダへ向けて出発。ナーランダ大遺跡、王舎城、竹林(ちくりん)精舎(しょうじゃ)等を見学の後ブダガヤへ。
   

ブダガヤは、菩提(ぼだい)樹下(じゅげ)で釈尊が悟りを開かれた聖地。大菩提寺では本堂である高さ50mの大塔に入り団員一同で勤行。菩提樹下の金剛(こんごう)宝座(ほうざ)が印象的でした。ガヤ駅からインド国鉄でベナレスへ。デッキに人が鈴なりの三等車を横目に、我々はエア・コン付きの一等車に乗車。翌日早朝、ガンジス河の沐浴場を船から見学。午後は車で初転(しょてん)法輪(ぼうりん)の地サールナート(鹿野(ろくや)(おん))へ。鹿野(ろくや)(おん)ではダーメーク・ストゥーパ(ほう)眼塔(げんとう))をカメラに収めベナレスへ。ベナレスからはインド国鉄の寝台車。9時間ほど揺られて払暁ゴーラクプールに到着。
 

駅前のホテルでモーニング・ティーを喫した後、バスで釈尊入滅の地クシナガラへ向けて出発。バスは悪路を3時間ほど走ってクシナガラに到着。夜行列車9時間+バス3時間で‘お疲れさま'。ツーリスト・ハンガローで暫時休憩。昼食を摂ったのち涅槃堂(ねはんどう)へ。ミャンマー人が建てたといわれるこの涅槃堂、白亜のコンクリート造。長方形の一階の上に横長の十文字円筒を載せたといったらよろしいか、ユニークな建物。東京本願寺の本堂建築にいささか共通するイメージかも。
  

中へ入ると巨大な涅槃像。金箔を押された大きなお顔と、布を掛けられたお身体。正に「頭北面西右脇」で横臥していらっしゃいました。最近ネット上で拝見するこの涅槃像、お顔のみならず掛けられた布か袈裟も金色。仏前で焼香、団員一同「仏説(ぶっせつ)阿弥陀(あみだ)(きょう)」を読誦20余名の声が堂内に響き渡り、実に荘厳な雰囲気。仏教の始祖釈尊が2千数百年前、この地で入滅されたかと思うと万感胸にジワーと来るものがありました。釈尊の教えが連綿と受け継ぎ伝えられ、今日のこの私に届けられているのだと思うと感無量。一層信心獲得に励まなければと思うや切であります。                                          

合掌

《2015.3.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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