法 話

(169)親鸞聖人のご生涯(1) 
 

 

 

   



大府市S・E氏提供


親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)ご生涯(  しょうがい)1
    

 

 きょうは201541新年度がスタート。折しも了願寺境内は桜花爛漫。そうそう、我々仏教徒にとって4月は意義深い月。48日はお釈迦様の誕生日。また親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)の誕生日41日。1173(承安3)年、藤原氏の流れをくむ日野(ひの)(あり)(のり)氏の嫡男としてご誕生。ご誕生の地は、現在の京都市南部、宇治にほど近い日野の里。父は身分の低い公家、母は源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)であると伝えられていますが、確かなことは分かっていません。この地には真言宗醍醐派の法界寺があります。822(弘仁13)年日野資業(すけなり)氏が創建した日野家の氏寺。

 境内に建つ阿弥陀堂は平安時代に建てられたもので国宝。堂内に安置されている「丈六阿弥陀仏座像」も国宝。華やかな天蓋(てんがい)と透かし彫りの光背(こうはい)が美しい。幼いころの親鸞聖人が念持仏として仰がれたと伝えられています。法界寺に隣接して誕生院があります。西本願寺第19世本如上人が発願され、第20代廣如上人の時に法界寺境内に建立されたとか。1923(大正12)年立教開宗700年記念事業として始まり1931(昭和6)年に落成。本尊「阿弥陀如来」を安置する真宗寺院。

 聖人ご誕生のころの時代背景は、保元・平治の乱を経て都では平氏一門が栄華を極めていました。しかし〝(おご)る平家は久しからず源氏を中心に反平氏の動きが活発化し、源平の争乱の果て平氏の権勢はわずか12年で衰退。代わって源氏一門が武家政治への道を開き始めましたが、相次ぐ天災のため深刻な飢饉が起こり、多くの人々が飢え死にしていく状況でした。一方、宗教界では比叡山・奈良の僧兵たちの争いのため、東大寺・興福寺をはじめ諸大寺が焼き払われるという事件が多発。

 そうした状況下、聖人自身も8歳で母親を亡くしたりして将来に不安を抱き、それがきっかけとなって9歳の春のころ、天台宗(しょう)(れん)(いん)()(えん)和尚(かしょう)のもとで出家得度。僧名を「(はん)(ねん)」と名のられました。この時、「明日ありと 思う心のあだざくら 夜半にあらしの ふかぬものかは」と歌を詠まれ、剃髪(ていはつ)を受けられたとのこと。聖人は逆縁のもと出家の道を歩み出されたのです。苦しみ、悲しみにうちひしがれながらも、それを訴える言葉も(すべ)もない人々の姿を目の当たりにして、聖人にとっては出家の道は人間として生きる意味を尋ねていく唯一の道だったのです。

 かくして、聖人は比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)において修行生活を開始。以後29歳までの20年間、人生に於いて最も多感な少・青年時代を、聖人は比叡の山に生きられたのです。伝教(でんぎょう)大師(だいし)最澄(さいちょう)によって開かれた比叡山延暦寺は、当時大乗(だいじょう)菩薩(ぼさつ)(どう)の根本道場として、その使命を自負し権勢を誇っていました。しかし、聖人が学ばれたころには、現世利益のための(すべ)や、現実生活とは無関係な学問の場になり果てていました。比叡山に加持(かじ)祈祷(きとう)を求めることができたのは広大な荘園を支配する領主など、社会の上層部。そのため、寺と貴族社会の結びつきはますます強固に。

 比叡山の(じょう)(ぎょう)三昧堂(ざんまいどう)(どう)(そう)をつとめていた聖人は、権力と結びつくことによって次第に世俗にまみれていく山内で、身分的な対立が生み出され、争いが絶えない状況が展開されるのを目の当たりにしました。もちろん、ひたすらに修学に励む堂僧もいなかったわけではありませんが、多くは、ただ自らの学問の世界に閉じこもっているだけの人たちでした。聖人は、仏の示されるようなさとりを開くことは、もはやこの世界ではかなわないのではないかと、修学者としての問いをますます深めながら、もがき、悩み、苦しむ日々を過ごされました。

    かなしきかなや道俗(どうぞく)

    (りょう)()吉日(きちにち)えらばしめ

    天神(てんじん)地祇(じぎ)をあがめつつ

    卜占(ぼくせん)祭祀(さいし)つとめとす

               (親鸞聖人作・『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』)

 比叡山に上がって20年、懸命に修学を続けられた聖人は、1201(建仁元)年29歳のとき比叡山を降り六角堂に日の参籠(さんろう)。六角堂は聖徳太子の建立と伝えられ当時観音信仰の霊場として信仰心を集めていました。このころは、社会は荒廃をいよいよ深め、人々はその日その日を生きあぐねていました。しかも仏教界は堕落を極め頼るべくもなく、人々は何によって生きていけばよいのか、その道を見いだすことができませんでした。仏法を敬い、世のために自分を捨てて生きられた聖徳太子の姿にすがられたのでしょう。

 聖人は、ただひとり、六角堂の本尊の前に身を置かれ日を期して祈りを続けられました。その状況は『(たん)(どく)(もん)』に「定水(じょうすい)()らすといえども識浪(しきろう)(しき)りに動き、(しん)(げっ)(かん)といえども(もう)(うん)なお(おお)う。…」と記されています。延暦寺の僧として懸命に修行しようとしても、煩悩によってそれが阻まれてしまう自らのあり方に苦悩し、真実の救いを求め続けられました。そして、参籠して九十五日目の暁、聖人は救世(ぐぜ)観音菩薩の夢告を受けられました。その夢告とは…

 

    行者宿報設女犯(ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん)    行者宿報にてたとい女犯すとも

    我成玉女身被犯(がじょうぎょくにょしんぴぽん)    我玉女の身となりて犯せられん

    一生之間(いっしょうしけん)(のう)荘厳(しょうごん)    一生の間能く荘厳して

    臨終(りんじゅう)引導生(いんどうしょう)極楽(ごくらく)    臨終に引導して極楽に生ぜしむ

 

 この夢告は、生死の迷いを離れていくべき仏道が、願生(がんしょう)浄土(じょうど)の道としてこの生死(しょうじ)の中にこそ成就していることを告げていたのです。この時聖人は、京の街でひたすら願生浄土の道を説いていられる(ほう)(ねん)上人(しょうにん)のもとを訪れることを心に決められたのです。聖人は、20年にわたり比叡山で修行を積んできた自力によって悟りを開く(しょう)道門(どうもん)をすてて、念仏によって救われていく(きよ)土門(どもん)の教えを説かれる法然上人の吉水(よしみず)の草庵を訪ね、教えを請う決断をされたのです                合掌

次号へ続く】

2015.4.1 前住職・本田眞哉・記》

 

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