法 話

(170)親鸞聖人のご生涯(2) 
 

 

 

   

 

大府市S・E氏提供

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)ご生涯(  しょうがい)(2)
    

 

 自力の行を修めて悟りを開かんとする道を歩んできた親鸞聖人にとって、比叡山を離れることは苦渋の決断であったに違いありません。聖人は六角堂の本尊の前に身を置いて百日の参籠(さんろう)。九十五目の暁、救世(ぐぜ)観音菩薩の夢告に導かれて聖人は(ほう)(ねん)上人(しょうにん)吉水(よしみず)草庵(そうあん)を訪ねて教えを請う決断をされたのです。後に妻の()(しん)()は、その時の聖人の姿を「後世(ごせ)のたすからんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて」と書きとどめていらっしゃいます。

 法然上人との初めての出会いがどのようなものであったのか。それ以後少なくとも百日の間、「降るにも照るにもいかなる大事にも参りて」との言葉が示すとおり、法然上人の教えを聞かずにおれないものを親鸞聖人は感じておられたのでしょう。そしてついに、聖人が聞き取られたのは「ただ念仏して弥陀(みだ)にたすけられまいらすべし」という法然上人の一言。聖人は、その一言を人々とともに生きておられる念仏者法然上人その人に出会われたのです。

 ここに仏法があり仏法に生きている人々がいると実感された聖人は、その歓びを主著『(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)』の後序(ごじょ)に「しかるに愚禿釋(ぐとくしゃく)(らん)(けん)(にん)(かのと)(とり)(れき)(ぞう)(ぎょう)()てて本願に()す」(建仁辛の酉の暦=AD1201と書きとどめられています。時に聖人二十九歳。かくして、聖人は法然上人の吉水教団で念仏者として歩み出されたのです。長きにわたり求め続けて見出すことのできなかった道がここに開けたのです。さらに仏法に生きている人々がいる。聖人にとって、その場に身を置くことはこの上ない歓びでした。

 こうして、法然上人のもとで念仏者として歩み出された聖人の日々は、決して平穏無事というものではりませんでした。吉水教団に対する仏教界からの圧迫の激しさは、前途に容易ならざるものを感じさせていました。そのことを思えば、吉水の教団に加わることは、むしろ嵐の中に船をこぎ出すような厳しさがあったのです。しかし、他に求めて見出すことのできなかった歓びを、今、本願念仏の一道の中に見出し得たのであり、その確信は聖人の歩みを一層一途なものにしていったのでしょう。

 長きにわたり求め続けて、見出すことのできなかった道がここにあり、そこには仏法に生きている人々がいたのです。聖人にとってその場に身を置くことはこの上ない歓びでした。加えて、1205(元久2)年、聖人三十三歳の時に、法然上人がその念仏の旗印を高く掲げられた主著『選択(せんじゃく)本願(ほんがん)念仏集(ねんぶつしゅう)』の書写と、上人の肖像を描くことを許されたのです。このことは親鸞聖人に終生消えることのない深い感動を与え、強い使命感を呼び起こしていったのでしょう。

 私たちは困難に直面したとき、その状況を変えることで困難を乗り越えようとしているのではないでしょうか。比叡山で修行中の親鸞聖人もそのようであったようです。聖人は、どうにもならない身が、どうにかなる身となって救われていく、そういう道を懸命に求められていたのです。これに対して、法然上人は、そのどうにもならない身がそのままで救われていく道を見出され、説いていらっしゃったのです。

 この教えに出会われた親鸞聖人は驚天動地の驚きを…。求めていた道はこれだ! 勇躍歓喜されたことでしょう。どうにもならない身がそのままで救われていく道とは、どうにもならないわが身が、本当のわが身に遇う道。法然上人との出会いによって、聖人は本来帰すべき自己を発見し、自分の理解力が如何に当てにならないものであるかを知らしめられたのです。本願念仏の教えに出遭うと同時に、思いもよらない自己に出遭われたのです。「我が身が我が身に遇う」道、聖人はこの道を体得されたのです。

 福井・鯖江の竹部勝之進氏の誌『生き甲斐』を拝借

 

    我ガ身ガ 我ガ身ニアウ

    手ノ舞イ足ノ踏ムトコロヲ知ラズ

    我ガ身ガ 我ガ身ニアウ

    コレ 我ガ身ノ生キ甲斐

合 掌

 

次号へ続く】

2015.5.1 前住職・本田眞哉・記》

 

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