法 話

(173)親鸞聖人のご生涯(5) 
 

 

 

   

 

大府市S・E氏提供

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)ご生涯(  しょうがい)(5)
    

 

    

【原文】教科書にも出てくる有名なフレーズ

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。 (『歎異抄(たんにしょう)』第章)

【現代文】 

善人でさえ救われる(往生を遂げる)のだから、まして悪人はなおさら救われる。ところが、世間の人は常に「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」 と言っています。この考え方は一見それらしく聞こえますが、 阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨にには背いています。

 法然上人(ほうねんしょうにん)とともに生きた吉水の時代を、わずか6年で断ち切られ、越後の地に投げ出された親鸞聖人(しんらんしょうにん)。比叡山での厳しい修行に耐えられた身であれば、風土の厳しさ、食糧不足などはさほどの苦痛ではなかったかも知れません。しかし、法然上人との別離は、計り知れない怒りや悲しみを聖人にもたらしたのではないでしょうか。

 越後の生活で親鸞聖人が出会われた人々は「いなかのひとびと」でした。いなかの人々は、善根(ぜんごん)を積むこともできず、その日を生き延びるためには、悪事とされていることでも、あえて行わなければならない人々。人間としてこの世で生きている限り、人は決して「悪事」と無縁に生きることはできません。

 例えば、食べなければ死ぬという身の事実において、自分が行き続けているということは、他のいのちを殺し続けているのです。親鸞聖人は、自分もまた罪の自覚と無縁に生きていた身の事実を、いなかの人々から教えられたのです。そして、恵信尼(えしんに)とともに肉食妻帯(にくじきさいたい)の一生活者となって、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」にかえっていかれたのです。

 私たち現代人は、科学の発達とともにこの身の事実を忘れて、その日暮らしを送っているのではないでしょうか。この事実に気づいたとき、「いのちの、娑婆(しゃば)にあらん限りは、つみはつくるなり」という言葉の重さを、改めて感じずにはいられません。

   他力の信心うるひとを

   うやまいおおきによろこべば

   すなわちわが親友(しんぬ)ぞと

   教主世尊(きょうしゅせそん)はほめたもう

親鸞聖人・作『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)

 越後に流されて5年、1211(建暦元)年1139歳の時、親鸞聖人は法然上人とともに罪を許されました。しかし、それもつかの間、翌年125日に師法然上人が世を去ったという悲報がもたらされました。そのためもあってか、聖人は京都には戻らず、1214(建保2)年42歳の時、妻子とともに関東の地へと旅立ちました。途中、上野(こうずけ)佐貫(さぬき)で土地の人々のために浄土三部経(じょうどさんぶきょう)を千部読誦(どくじゅ)することを思い立たれたといわれます。

そのころ、関東一円には飢饉が広まり、人々は地を這うようにしてその日その日の命をつないでいたといわれます。そして力尽きた人々が次々と倒れていったのです。その姿から目を背けることのできなかった聖人は、ただひたすら経典を読誦して、世の平安を祈らずにはおられなかったのでしょう。

しかし、どれほどいとおしみ、不憫(ふびん)に思っても、その思いのままにすべての人々を助けることはできない。その事実が改めて聖人の心を重くとらえ、45日後に思い直して浄土三部経の千部読誦の行をすてられたと伝えられています。この体験は、聖人に、いよいよ本願念仏の一道を生きとおすことを決定(けつじょう)させたのです。聖人はただひたすらに、本願の名号に徹していかれ、人々が正定聚(しょうじょうじゅ)に住するものとなることを願いつづけていかれたのです。

 その後聖人は、上野国から武蔵(むさし)国を経て常陸(ひたち)国に入り、稲田の地に草庵を設けました。以後約20年の間、常陸国を中心に下総(しもうさ)国・下野(しもつけ)国まで歩みを進め、多くの人々と出会い、交わりをもって教えを説いて行かれました。教えを受けた人々は、『親鸞聖人門侶交名帳(もんりょきょうみょうちょう)』などに伝えられる70数名を中心に、数千人にも達したであろうと考えられています。こうして、関東においての歩みの中から念仏者の僧伽が形成されていったのです。.                                

 合 掌

次号へ続く】

2015.8.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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