法 話

(174)親鸞聖人のご生涯(6) 
 

 

 

   

 

大府市S・E氏提供

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)ご生涯(  しょうがい)(6)
    

 

    

 私たちは他人と出あうとき、自分の“ものさし”で他人をはかってしまいます。自分と趣味が合うかどうか、自分より知識があるかどうか、自分と利害が共通するかどうか。私にとって都合が良いか悪いかで他人を判断しています。そこには、基準である私自身が問い返されてくることはありません。「気に入らないと思っていたが、よくよく話してみるといい人だった」などという場合、変わったのは相手ではなく、自分の“ものさし”が変わったに過ぎないのではないでしょうか。“ものさし” で他人を問うのではなく、“ものさし”そのものが問われているのではないでしょうか。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)が関東で出会われた「いなかのひとびと」の中には、文字も知らない人が数多くいました。教えを受けとる側としか成り得ないこの人々に対し、聖人は「御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)」と大切に出会っていかれました。そうした人々と共に和する中に“ものさし”を問われ、「念仏申す」しかない自分の有様を深くいただかれながら、“親友(しん ぬ)”との出会いを果たされたのです。

越後・関東での生活をとおして親鸞聖人は、生き延びるためには、他をかえりみている余裕などもつことのできない人々のなかに、人間の裸の事実を見いだしていかれたのです。そして、この荒々しく生きる人々こそ、念仏して自らの罪悪にめざめるとき、大悲の本願を生きるものとなることを確信されたのです。悪人こそまさに本願が救おうと誓った人々であったという「悪人正機(あくにんしょうき)」の教えは、その確信のうちにあたらしく開けてきた世界であったのです。そして聖人は、この他力をたのむ悪人をみずから「愚禿( ぐ とく)」と名告られたのです。

親鸞聖人の関東教化によって生み出された念仏者たちは、その念仏の教えを人々に伝えることに情熱をかたむけました。やがて、有力な門徒を中心に、各地にあたらしい師弟関係をもった念仏者の集まりが生まれていきました。しかし、悲しいことに、ともすれば、その師弟関係にとらわれて僧伽(さんが)をにごらせ、派閥的な争いを引き起こすことになります。

それだけに聖人は、つねに人の師となることへのきびしい自省の眼を持ちつづけ、「名利(みょうり)人師(じんし)をこのむ」と悲歎(ひたん)され、「弟子一人(でしいちにん)ももたずそうろう」いいきられていらっしゃいます。聖人の教化は、仏德(ぶっとく)讃嘆(さんだん)であり、命をつくしての仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)のあゆみであったのです。

 

【原文】

 専修念仏(せんじゅねんぶつ)のともがらの、わが弟子、ひとの弟子という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ、ひとに弥陀の御もよおしあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどということ、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすも あるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

(『歎異抄(たん に しょう)』第章より)

【現代文】

もっぱら念仏している人々のなかに、自分の弟子だ、ひとの弟子だという争いがあるのは、もってのほかのことである。親鸞は、弟子というものを一人ももたない。というのは、自分の力量で、ひとに念仏を称えさせるというのであれば、弟子ともいえよう。しかし、ただひとえにアミダのはたらきにうながされて念仏している人を、自分の弟子であるなどというのは、まったくとんでもないことである。

    つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどということ、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。がえすがえすもあるべからざることになり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

 合 掌

次号へ続く】

2015.9.3 前住職・本田眞哉・記》

 

  to index