法 話
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大府市S・E氏提供 |
私たちは他人と出あうとき、自分の“ものさし”で他人をはかってしまいます。自分と趣味が合うかどうか、自分より知識があるかどうか、自分と利害が共通するかどうか。私にとって都合が良いか悪いかで他人を判断しています。そこには、基準である私自身が問い返されてくることはありません。「気に入らないと思っていたが、よくよく話してみるといい人だった」などという場合、変わったのは相手ではなく、自分の“ものさし”が変わったに過ぎないのではないでしょうか。“ものさし” で他人を問うのではなく、“ものさし”そのものが問われているのではないでしょうか。
越後・関東での生活をとおして親鸞聖人は、生き延びるためには、他をかえりみている余裕などもつことのできない人々のなかに、人間の裸の事実を見いだしていかれたのです。そして、この荒々しく生きる人々こそ、念仏して自らの罪悪にめざめるとき、大悲の本願を生きるものとなることを確信されたのです。悪人こそまさに本願が救おうと誓った人々であったという「
親鸞聖人の関東教化によって生み出された念仏者たちは、その念仏の教えを人々に伝えることに情熱をかたむけました。やがて、有力な門徒を中心に、各地にあたらしい師弟関係をもった念仏者の集まりが生まれていきました。しかし、悲しいことに、ともすれば、その師弟関係にとらわれて
それだけに聖人は、つねに人の師となることへのきびしい自省の眼を持ちつづけ、「
【原文】
つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどということ、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすも
あるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
(『歎異抄』第六章より)
【現代文】
もっぱら念仏している人々のなかに、自分の弟子だ、ひとの弟子だという争いがあるのは、もってのほかのことである。親鸞は、弟子というものを一人ももたない。というのは、自分の力量で、ひとに念仏を称えさせるというのであれば、弟子ともいえよう。しかし、ただひとえにアミダのはたらきにうながされて念仏している人を、自分の弟子であるなどというのは、まったくとんでもないことである。
つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどということ、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。がえすがえすもあるべからざることになり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
合 掌
【次号へ続く】
《2015.9.3 前住職・本田眞哉・記》