法 話

(175)親鸞聖人のご生涯(7) 
 

 

 

   

 

大府市S・E氏提供

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)ご生涯(  しょうがい)(7)

 

 親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)(かい)(けん)された教えの真髄は、ひとことで言えば「不断(ふだん)煩悩(ぼんのう)(とく)涅槃(ねはん)」でしょう。親鸞聖人は85歳のとき『唯信鈔(ゆいしんしょう)文意(もんい)』を撰述されました。これは、安居院(あぐい)(せい)覚法印(かくほういん)が撰述された『唯信鈔』に引用された経釋の要文を抜き出して、一般の人々にも心得やすいように撰述されたもの。その中に次のような一節があります。

 

【原文】

    ひとすぢに()(ばく)(ぼん)()屠沽(とこ)()(るい)() 無礙(むげ)(こう)(ぶつ)不可(ふか)思議(しぎ)本願(ほんがん)広大(こうだい) 智慧(ちえ)(みょう)(ごう)(しん)(ぎょう)すれば、 煩悩(ぼんのう)()(そく)しながら()(じょう)(だい)()(はん)にいたるなり。 ()(ばく)はよろづの煩悩(ぼんのう)にしばられたるわれらなり。 (ぼん)()をわづらはす、 (のう)はこころをなやますといふ。 ()はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり。 これはれふしといふものなり。 ()はよろづのものを、うりかふものなり。これは、あき(びと)なり。 これらを()(るい)といふなり。

(のう)(りょう)()(りゃく)(へん)(じょう)(こん)」 といふは、「(のう)」 は、よくといふ。 「(りょう)」 は、せしむといふ。 「()」 は、かはらといふ。 「(りゃく)」 はつぶてといふ。 「(へん)(じょう)(こん)」 は、 「(へん)(じょう)」 はかへなすといふ。 「(こん)」 は、こがねといふ。 かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしと、たとへたまへるなり。 れふし・あき(びと)、 さまざまのものはみな、 いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり

 

【現代文】

    それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、 ただひとすじに、 思いはかることのできない無礙光仏の本願と、 その広く大いなる智慧の名号を信じれば、 煩悩を身にそなえたまま、 必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。 「具縛」 とは、 あらゆる煩悩に縛られているわたしたち自身のことである。 「煩」 は身をわずらわせるということであり、 「悩」 は心をなやませるということである。 「屠」 は、 さまざまな生きものを殺し、 切りさばくものであり、 これはいわゆる漁猟を行うもののことである。 「沽」 はさまざまなものを売り買いするものであり、 これは商いを行う人である。 これらの人々を 「下類」 というのである。

「能令瓦礫変成金」 というのは、「能」 は 「よく」 ということであり、 「令」 は 「させる」 ということであり、 「瓦」 は 「かわら」 ということであり、 「礫」 は 「つぶて」 ということである。 「変成金」 とは、 「変成」 は 「かえてしまう」 ということであり、 「金」 は 「こがね」 ということである。 つまり、 瓦や小石を金に変えてしまうようだとたとえられておられるのである。 漁猟を行うものや商いを行う人など、 さまざまなものとは、 いずれもみな石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである。

 

 親鸞聖人は、60歳を過ぎたころ、約20年過ごした関東の地を後にして京都へと向かわれました。その途中、三河や尾張に立ち寄られ、多くの人々に教えを説かれたと伝えられています。

 しばらくぶりに戻った京都。しかし、そこでの生活は決して平穏なものではなかったようです。聖人は住居をあちらこちらと変えながら、すでに関東で執筆を始められていた主著『(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)』を完成させるとともに、たくさんの『和讃(わさん)』(仮名交じり文の讃歌)を著されました。さらに『唯信鈔文意』、『尊号(そんごう)真像(しんぞう)銘文(めいもん)』、『一念(いちねん)多念(たねん)文意(もんい)』などの書物を著し、本願念仏の教えを分かりやすく残されたのです。

 聖人が京都に戻られた後も関東の門弟の中には、じかに聖人の言葉をいただこうと、はるばる上洛するものもありました。また、しばしば手紙も交わされており、その中には、いただいた「御こころざしのもの」に対して感謝の気持ちを伝えるものもあります。聖人の生活が、関東の門弟によって支えられていたことがうかがわれます。聖人と関東の人々との密接な関係は、最晩年まで続いたのでした。

 親鸞聖人の帰洛の理由ははっきりしませんが、帰洛後の聖人は息つく間もなく、『教行信証』を基軸に、多数の『和讃』や『唯信鈔文意』『尊号真像銘文』『愚禿鈔(ぐとくしょう)』『入出二門偈(にゅうしゅつにもんげ)』等々を著され、活発に著作活動を展開されました。それは、承元(じょうげん)の法難後も次から次へと沸き起こる念仏への無理解を縁に、「よきひとのおおせ」に立ち返り、自らの(たまわ)った信心を問い(ただ)していかれた表明でありました。まさに、一念仏者としての新たな出発であったのです。

    

 合 掌

次号へ続く】

2015.10.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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