法 話
(176)「
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大府市S・E氏提供 |
私たちは、洪水の如く押し寄せてくる情報に飲み込まれつつ、生活の
そして、これらを信じる自分自身を問うこともなく、「これさえあれば大丈夫」と固執し続けているのです。しかし、よくよく考えてみれば、これらのものは縁が尽きれば無くなるものです。とすれば、そのようなものに安心の拠り所を求めたとしても、結局は不安を募らせるばかり。真の拠り所とはならないのではないでしょうか。
私たちは、当てにならぬものを拠り所にして、真の拠り所を明かそうと身を粉にし骨を砕いて生きられた聖人を、敬いながらも、実は遠ざけてきたのではないでしょうか。
親鸞聖人が京都に帰られたのち、権力者による弾圧や日蓮上人の念仏批判などがあいつぎ、そのために関東の御同行の間に信仰上の動揺がおこってきました。聖人は、その人々にたいして、お手紙をもって惑いをただされるとともに、子息善鸞を関東に送って、人々の力添えとされたのでした。
使命を荷負った善鸞は、関東の教団を統一しようとして、かえって、有力な門弟と対立するようなことになっていったのです。そのため善鸞は、聖人の子という立場を強くおしだし、また、権力者たちとも妥協し、それを利用しようとさえしました。
そうした善鸞の行為とそのためにおこった教団の混乱を知られた聖人は、念仏の僧伽がくずれていくことを悲しみ、あえて善鸞を義絶されたのです。しかし、義絶によって、善鸞の親であるという事実まで隠そうとされたわけではありません。かえって、義絶しなければならない子を持った親として、善鸞の犯さねばならなかった罪のふかさを、聖人自身が重く荷負われていったのです。
一方、京都へ帰られた親鸞聖人のもとへは、関東から門弟が聖人に教えを請うて上洛しています。今ならJR新幹線で3時間弱の行程ですが、当時はわらじ履きで2週間以上を要したことでしょう。しかも、“川止め”があったり、追いはぎが出たりして治安も悪く、文字どおり「身命をかえりみず」の旅だったでしょう。まさに信心力の強さに“脱帽”です。
【原文】『歎異抄』第二章(河和田の唯円著)
おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしましておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して、地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すきかぞかし。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身のしんじんにおきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
【現代文】
そなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から京都まで命がけで、この親鸞を訪ねられたお気持は、極楽浄土に生まれる道を、聞いて明らかにするためでしょう。だがもしこの親鸞が、阿弥陀仏の本願のほかに、助かる道や、秘密の法文を知っているのではなかろうかと、いぶかっての上洛ならば、とんでもない誤りであり、まことにもって悲しい限りである。もし、そういうことならば、奈良や比叡にでも行かれるがよい。あそこには立派な学者が、たくさんいなさるから、それらの方々に、浄土に生まれるための道を、とくとお聞きなさるがよかろう。
親鸞においては、ただ本願を信じ念仏して、弥陀にたすけていただこうと、よき人(法然上人)の仰せにしたがい、信ずるほかに、特別のもないのだ。念仏は本当に浄土に生まれるたね(因)なのか、また、地獄へ行く悪い言葉なのか、そういうことはまったく私の関知しないところである。たとえ法然上人にだまされて念仏して地獄に堕ちたとしても、親鸞は何の後悔もないであろう。なぜならば、念仏以外の修行に励んで仏になれる私が、念仏したから地獄に落ちたのであれば、「だまされて…」という後悔もあろう。だが、どのような修行もできないこの身であるから、どうしてみても地獄は、私にとって決定したすみかなのである。
弥陀の本願がまことであるならば、釈尊がお説きになった教えもウソであるはずがない。ブッダ釈尊の説かれた教えがまことならば、善導大師のご解釈にも偽りがあるはずがなかろう。善導大師のご解釈がまことならば、法然上人の教えも、ウソ偽りがあろうはずがないではないか。法然聖人の仰せがまことならば、親鸞の申すことも、これまた空しいたわごとではない、といえようか。つまるところ、愚かな身にいただく私親鸞の信心はこのようなものである。このうえは、念仏を受けとって信じようとも、また捨てようとも、あなたがた一人ひとりが、お決めになることである。と、このように親鸞聖人は仰せになりました。
合 掌
【次号へ続く】
《2015.11.3 前住職・本田眞哉・記》