法 話

(179)親鸞聖人のご生涯(10) 
 
 

 

 

   

 

温暖知多半島に積雪

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)ご生涯(  しょうがい)(10)



神々を恐れ、鬼神(きじん)おびえ、日の善し悪しを気にする人々の弱い心につけ込んでこれまでの教団は加持(かじ)祈祷(きとう)呪術(じゅじゅつ)にあけくれいましたそれは、人々から現実直視する眼をうばい生活を暗くさせはてしのない闇に引き込んでいきました

親鸞聖人が書かれた『顕浄土方便化身土文類六(けんじょうどほうべんけしんどもんるいろく)』末巻にその総論といってもいい経文があります。それは、蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)御文( お ふみ)一帖(いちじょう)()の第九通に引用されている『(はん)(じゅ)三昧(ざんまい)(きょう)』の経文。それは「()()()この三昧経を聞きて学ばんと(おも)わば、自ら仏に帰依(きえ)し、法に帰命(きみょう)し、比丘(びく)(そう)に帰命せよ。()(どう)(つか)うることを()ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神(きじん)(まつ)ることを得ざれ、吉良(きちりょう)(にち)()ることを得ざれ」。

この「優婆夷」は、釈尊教団の構成員の一つである在家の女性の信者のこと。「清信女」とも漢訳されている女性の仏教徒。外物(がいぶつ)他人(たにん)によって己を満たそうとする生き方を捨てた筈の仏教徒。いわば外道(げどう)()てて仏陀の教法に生きている人間です。もうすでに仏教徒である優婆夷に、(さん)帰依(きえ)を求めた上で四つの「得ざれ」が指摘されたいるのです。外教( げ きょう)(じゃ)()の異執の徒に対して三帰依と四つの得ざれを求めるならば理解できますが、仏教徒に対してこの戒めが垂れられていることに注目すべきではないでしょうか。人間の(さが)がなさしめることとして妥協すべき事ではないと思います。

親鸞聖人は、そのような人々に、念仏は無碍(むげ)の一道であることを説きつづけ、禍福( か ふく)にまどうおびえから人々を解放し、仏教のあかるい世界へとよびさましていかれたのです。それは、呪術や祈祷にあけくれる、われわれ日本人の精神生活を根底からゆりうごかす出来事でした。

【原文】『歎異抄(たん に しょう)』第七章

      念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神(てんじん)地祇(じぎ)敬服(きょうぶく)し、魔界(まかい)外道( げ どう)障碍(しょうげ)することなし。罪悪(ざいあく)業報(ごうほう)を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々。

【現代文】

念仏者は無碍の一道であります。どうしてかといえば、信心の行者には、天地の神々も敬いひれふし、魔界や外道もさまたげとなるることはありません。罪悪もその報いを感ずることはできません。どのような毒も念仏におよぶことはありません。だから無碍の一道でありますと。

 私たちが今日、「外物他人」によって己を満たそうとする生き方持っている限り、そういう私の体質が、(おそ)れや惑わされる諸々の神々を限りなく生み出し作り出していくのです。そしてその作り出したものによって、いよいよ呪縛(じゅばく)されていくのが私たちの実態ではないでしょうか。この問題というのは、外なる神の問題を透して内なる神・霊が問われているということです。私たちの体質・内なる霊が明らかにされてこなければなりません。

 今日の私たちの生きざまが、真宗の教えにおいて透視されなければなりません。透視されることにおいてのみ、私が限りなく外物他人によって己を満たそうとしている体質であり、だからこそ(おそ)れに振り回されていくような生き方しかできない私、そういう私であるということを知らしめられるのです。そのことの他にその体質を持っているままで、そこを一点突き破っていくような生き方というものは決して出て来ません。

だから、私たちにとっては真の教え・真のことばとの出会いのみによって、そういう自らの体質が透視されていくのです。したがって、真の教え・真のことばとの出会いを限りなく戴いていく、あるいはもっといえば確保していく、それ以外に私たちがこの問題を克服していくあり方はどこにもないんじゃないか、ということを学ばせられるのです。

次号へ続く】

2016.2.1 前住職・本田眞哉・記》

 

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