法 話

(180)親鸞聖人のご生涯(11) 
 
 

 

 

   

 

大府市S・E氏提供

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)ご生涯(  しょうがい)(11)



朝廷、さらには鎌倉幕府による専修(せんじゅ)念仏(ねんぶつ)の禁止は、その後もしばしば繰り返されていました。そのなかを、六十歳をこえたころ、親鸞聖人は関東を後にして京都に帰られました。その都での生活も決して安穏なものではなく、住居もあちらこちらと、縁を求めて移されています。

なぜ関東の御同朋と別れて、ひとり京都に帰られたのか、その理由についても、聖人は何も語っておられません。ただ、聖人は京都に帰られてから、関東においてすでに書き進められていた『(けん)浄土(じょうど)真実(しんじつ)(きょう)(ぎょう)証文類(しょうもんるい)』を完成され、さらに、その後の生活も、もっぱら著作にささげられたという事実があります。

『顕浄土真実教行証文類』は、専修念仏に対する(しょう)(どう)諸教団からの批判や、国家からの弾圧を受けながらも、本願念仏こそ真実の道であることをあきらかにされたものです。それは時代をへだて、民族を超えた念仏者の歴史を、(しち)高僧(こうそう)の伝統として掘り起こし、どのような人も、ともにひとしく、人間としての尊厳さを自分自身のなかに見いだして生きていくことができる道をひらかれた、人類の根本聖典というべきものであります。

さらに聖人は、その『顕浄土真実教行証文類』によってあきらかにされた広大(こうだい)無碍(むげ)の世界を、『和讃(わさん)』をもってうたわれ、お手紙をもって語り尽くしていかれたのです。そこには、当時の人々を縁として、遠く未来の人々にまで、まことの道を伝えていこうという、聖人の強い願いが脈打っています。

そして当時、善鸞(ぜんらん)事件などにみられる幾多の異義や、鎌倉幕府の弾圧などによって動揺を続けていた関東の御同朋たちは、その聖人のお言葉を力として本願念仏の一道を生きていかれたのです。

【原文】『教行信証』(化身土巻(けしんどかん)

      前にうまれん者は後を導き、後に生まれん者は前を(とぶら)え、連続(れんぞく)無窮( む ぐう)にして、願わくは休止(  )せざらしめんと欲す。無辺の(しょう)死海(じかい)を尽くさんがためのゆえなり。

【現代文】

先に往生した者は後をみちびき、後に往生する者は先人の跡を尋ねて、往生の業がつねに続き、絶えることがないことを願うゆえである。限りない生死の海に苦しむ一切衆生を、汲み尽くさんがためである。

善鸞義絶という悲しい出来事の後も、親鸞聖人は精力的に多くの著作を著されました。「恩徳讃」を含む『正像末和讃』を完成されたのも、最晩年。聖人85歳の手紙には、「目も見えず候。なにごともみなわすれて候」と記されていますが、身体が確実に衰えていく中で、文書による伝道への熱意は一向に衰えることはありませんでした。

弘長21262)年1128日、親鸞聖人はその命を仏道に捧げつくして、90年の生涯を閉じられました。入滅の場所は、次弟の尋有の住寺・善法院と伝えられています。聖人の臨終には、肉親は子息の道性と末娘の覚信尼、門弟は顕智と専信の計4人が臨んだと言われます。聖人の亡骸は、翌29日に荼毘に付され、30日には京都・鳥辺野の北、大谷の地に埋葬されました。

葬儀は覚信尼が主宰したと伝えられています。入滅後10年を経て、東国の門弟達が覚信尼に協力し、遺骨を吉水の北辺に埋葬し直して廟所を建立したといわれます。現在に続く本願寺の始まりです。かくして、本願念仏に生きられた聖人の命は、如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今日なお生きつづけ、無数の念仏者を生みだしつづけているのです。

 

次号へ続く】

2016.3.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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