法 話
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親鸞聖人は「
聖人の曽孫・覚如上人は、「これからすなわち、この肉親を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしあしをあらわしましますゆえなり」としています。親鸞聖人のご本体は肉身にあるのではなく、その信心にあるという讃仰でありましょう。
親鸞聖人が法然上人を通して出会われたのは、「阿弥陀佛の本願を信じ、ただ念佛して佛になる」道でした。聖人はその道を、インド・中国・日本を貫く先人の歩みに求め、確認していかれたのです。そこで聖人が発見されたのは、人間としての生き方を仏法に教えられ、念仏の教えを喜ばれた無数の人々でした。
親鸞聖人の廟所を起源とする本願寺の歴史は、聖人のように仏法を喜ぶことを願う無数の先達の歩みです。人は亡くなって終わりではない。亡くなってなお用き続ける願いの存在を確信した人々の歩みは、今、私たちに届いているのです。
親鸞聖人没後、聖人の教えは、自らの体験内容を記した法語文書、あるいは諸国の門弟につかわされた書簡等々として残され編集され、生前にも況して燎原の火の如く広がっていきました。ライフ・ワーク『教行信証』とは違ったソフトタッチの文書が帰依者の心を捉えていったのです。
そして、750年余を経た今日までその教えは連綿と伝えられ、人々の心の歩みの中に生き続けているのです。その伝承役を担ったソフトタッチの文書を例示してみましょう。
【原文】『末燈鈔』(第五通)
自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむちうことばない。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこのおんちかいばるがゆえにすべて行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。
自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀佛の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀佛とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。ちかいのようは、無上佛にならしめんともちかいたまえるなり。無上佛ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然ともうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀佛とぞききならいて候う。みだ佛は、自然のようをしらせんりょうなり。
正嘉二(1258)年12月14日 愚禿親鸞八十六歳
【現代文】
自然というのは、自は「おのずから」といことで、私たち念仏の行者の分別ではないことを意味します。然というのは「しからしむ」という言葉です。しからしむというのは、行者の分別ではないということで、如来の誓いであるゆえに法爾と言うのです。法爾というのは、この如来のおん誓いであるゆえに、しからしむることを法爾と言うのです。法爾は、このおん誓いであったゆえに、行者の分別がいっさい加わらないのでこの法の德のゆえにしからしむと言うのです。すべて、人間の分別が関与しないと言うことです。それゆえに、義なきを義とすると知るべきであると言われるのです。
自然というのは、「もとよりしからしむる」という言葉です。弥陀佛のおん誓いが、もともと念仏行者の分別ではなく、私たちに南無阿弥陀佛と頼ませて浄土にむかえてやろうと、弥陀おんみずから誓われたことによるのです。それゆえに念仏行者は、もはや善いとも悪いとも考える必要がないのです。だからこそ自然と言うのであると私たちは教わっているのです。弥陀の誓いというのは、すべての者を無上の佛にしようとする誓いです。無上佛というのは、形もなくあらわれるということです。形がないゆえに自然と言うのです。形があるときは、無上涅槃とは言わないのです。形がなくあらわれることを私たちに報せようとして、弥陀佛という姿形をもった佛となられたのであると教わっております。弥陀佛とは、自然ということの意味を報せようがための手だてであります。
【次号へ続く】
《2016.4.3 前住職・本田眞哉・記》