法 話

(183)名刹焼損 
 
 

 

 

   

 


大府市S・E氏提供



名刹焼損(めいさつしょうそん)


 

 

 2016(平成28)年34日午後3時ごろでしたか、突然近くの消防団詰め所のサイレンが鳴り渡りました。当山の境内地は海抜10mほどの河岸段丘上にあり、〝平地〟に建つ火の見櫓上に設置されたサイレンは水平方向目線の高さに位置するため、吹鳴の音は私たちの耳に直に飛び込んでくる感じ。十数回の吹鳴が終わって間もなく、消防車がサイレンを鳴らして出動していきました。後続の消防車のサイレンの音も聞こえなかったので、ボヤ程度だったのかなと思いデスク・ワークに復帰。

 午後5時半ごろでしたか、電話のコール音。出てみると、名古屋市在住の大学時代の同級生。「君のところの近くの大きなお寺から出火したんだね! TVニュースでやってたよ!」「えっホント! ニュース見てないよ、何というお寺?」「ケンコンインとか云ってたよ」「えっ? 乾坤院といえば徳川家康ゆかりの名刹だよ!」。自坊了願寺と乾坤院は直線距離で1㎞ほどしか離れていませんが、乾坤院に至るまでの背後には丘陵があり、全く目視できません。加えて、古来“やーまのなーかの乾坤院”と唄われてきたように、境内地は小盆地のように「山」で囲まれているため、尚更のこと。

 後日、乾坤院の南方500mほどのところにある石浜団地のご門徒宅で法事が営まれました。法要の中休みで話題に上ったのが乾坤院の火事騒ぎ。団地内で医院を開業していらっしゃる先生が、学会の帰途たまたま現場の近くにさしかかったところ、消火活動で通行止め。止むを得ず迂回して帰宅されたとのこと。おそらく消防車もウン十台、足の踏み場もないほどホースがうねっていたことでしょう。なのに、当山の下の旧国道を走る消防車は1輌のみ…。自坊下の旧国道からは1㎞近く隔たっており、西部地域の道路を経て乾坤院へアプローチするのはごく自然のことかも。

 情報によれば、出火したのは山門を入って正面に威容を誇っていた本堂だったようです。出火原因は詳らかにされていませんが、供えられていたローソクの火とか。火勢は猛烈だったようで、本堂に向かって左側に甍を並べていた座禅堂にも類焼して本堂同様灰燼に帰しました。一方、向かって右側の築十数年ほどですか、比較的新しい大庫院は類焼を免れたようです。乾坤院は、徳川家康ゆかりの古刹なので歴史的重要文物をあまた所蔵。あわや焼失かと思いきや、出展のため他所へ“疎開”させていたため難を免れたとか。不幸中の幸いとでも云いましょうか。

 ところで、乾坤院が徳川家康ゆかりの寺とは? まず、徳川家康はどこで生まれたのでしょう。そう、三河国・岡崎城で出生。で、両親は? 父親は岡崎城主・松平広忠、母親は広忠の正室・於大( お だい)の方。生年は、戦国時代中期(室町時代末期)の1542(天文11)年。幼名は竹千代。そして、その竹千代の生みの親・於大の方が生まれたのが緒川( お がわ)の郷。彼女は1528(享禄元)年、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその妻・於富の間に、忠政の居城・緒川城(現・愛知県知多郡東浦町緒川)で出生。父・忠政は、緒川からほど近い三河国にも所領を持っていたため、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富を離縁して清康に転嫁。

松平氏とさらに友好関係を深めるため、忠政は1541(天文10)年に娘・於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせました。1543(天文11)年1226日、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を出産。しかし忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、1554(天文14)年に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁させられ、実家・水野氏の三河国刈谷城(現・刈谷市)に返されました。

於大は、1547(天文17)年には信元の意向で、知多郡阿古居城(現・阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁。これは、俊勝がもともと水野氏の女性を妻に迎えていましたが、その妻の死後は水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化を図ったのが理由かと考えられています。俊勝との間には三男三女をもうけました。また、この間にも家康と絶えず音信を取り続けていたとのこと。

1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えたとのこと。於大は俊勝の死後、俊勝の菩提寺・蒲郡の安楽寺で剃髪して伝通院と号した、と伝えられています。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いの後、於大は子の松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上しましたが、強く反対し、家康に断念させたと伝えられています。

奇しくもこの時代に、我が了願寺が産声をあげています。1522(大永2)年、開基住職・本田良空が就任し、1581(天正9)年に入滅。日本の歴史の大きな流れは、このあと豊臣秀吉時代から徳川家康の時代へと大きく転換していきます。そのエポック・メイキングなポイント、それが1600(慶長5)年でしょう。ご存じ、天下分け目の「関ヶ原の合戦」。したがって、了願寺も創立以来494年の歴史を有しているわけです。就任住職も私で第16代、現住職で17代を数えています。

 

2016.6.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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