法 話

(186)五十年前を振り返って 
 
 

 

 

   

 


大府市S・E氏提供

                 

五十年前を振り返って





 前号で、宗祖(しゅうそ)親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)七百五十回御遠忌(ごえんき)法要(ほうよう)(ごん)(しゅ)計画を立ち上げたことを記しましたがここで50年前に当山で勤修した「宗祖親鸞聖人七百回御遠忌法要」のことを思い起こしてみたいと思います。真宗門徒の「年忌法要」「年回法要」は、一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌、以後三回忌・七回忌毎にお勤めし、五十回忌で一区切り。その後は、百回忌・百五十回忌・二百回忌…と、50年間隔。

 宗祖親鸞聖人の「年回法要」についても、今は50年間隔でお勤めする「御遠忌法要」の時代に至っています。当山に於ける前回の「七百回御遠忌法要」は、1964(昭和39)年1211日~13日、「本堂修復落慶法要」と併せて勤修。1959(昭和34)年926日「伊勢湾台風」が東海地区を襲い、強風と高潮が空前の被害をもたらしました。当山は海抜10mほどの高台にあるため浸水被害は免れたものの、風速5060mの強風にあおられて本堂始め堂宇は壊滅的打撃を受けました。

 当時、私は名古屋市内の高等学校の教員をしていましたので、当日名古屋駅発16時過ぎの電車で帰宅。午後6時ごろにはもう停電。買ってきた単1乾電池2本を懐中電灯にセットし点灯テスト、OK。あと2本の乾電池の使い方は〝オレ流〟。中学・高校時代の私の趣味は、模型電車を作ったりラジオを組み立てたり、いわゆる機械いじり。『初歩のラジオ』とか『無線と実験』といった雑誌をよく読んだものです。しかし、大学受験の時期になってこの趣味も中断。

大学に入ってから復活したものの、ちょうどそのころトランジスタが普及し始め、ラジオも真空管式からトランジスタ式に急速に変化。私はその流れに乗り遅れ、依然として〝真空管派〟。名古屋市瑞穂区にあった「白砂電機(器?)」という会社が、「シルバーラジオ」というブランドで携帯(ポータブル)ラジオを発売。初めはかなり大きくて重い製品でしたが、トランジスタ式になってから小さくなった覚え。

いずれにしても超高価な品物で母子家庭の私にとっては高嶺の花、とても買える代物ではありませんでした。金満家の子がこれ見よがしに、ポータブル・ラジオを鳴らしながら街を歩いていたっけ。そうそう、1976(昭和51)年、初めてインドネシアを訪れた時、ラジカセをぶら下げてガンガン鳴らしながら、自慢げに街を歩いている男がいました。CM「シルバーラジオのポータブル」を思い出しました。

さて、金欠病の私としては、ポータブル・ラジオは自分で作るっきゃない。ということで、刈谷市の「中央無線」とか「刈谷無線」という電気店で部品を買ってきて、雑誌に載っている配線図を頼りに組み立てました。ポータブル・ラジオ用の真空管は、ミニチュア(MT)管か、サブ・ミニチュア(SMT)管。ミニチュア管は、直径2cmぐらいで長さ56cm。普通の真空管と違ってソケットはなく、ガラス管から直に太さ0.5mmほどのピンが出ている構造。確か「1R5」、「1S5」とか「1T4」とかいう真空管だった覚え。

ポータブル・ラジオのケースは、羊羹の入っていた木箱を再利用。大きさは、およそ20cm×10cm×5cm。その中へ、検波・増幅・出力等4本の真空管と、コイル・コンデンサー・抵抗などをジュラルミン製のシャーシーに組み付け詰め込みました。スピーカーは入りきらないので、これまた両口屋是清の「二人靜」の入っていた空き箱の廃品を利用。中に3インチのパーマネント・ダイナミック・スピーカーがちょうど収まりました。

パーマネント・ダイナミック・スピーカーは、それまでのマグネチック・スピーカーに比べて格段に音質がよく、かなり高価な代物でした。「パーマネント」とは、「パーマネント・マグネット(永久磁石)」の前半を取った略称。円柱状をしたセンター・ポールの永久磁石(N極)と、それを取り巻く鉄芯(S極)の隙間をボイス・コイルが電流によって振動します。グネチック・スピーカーに比べると、ボイス・コイルの動きがダイナミック。そのボイス・コイルの振動を円錐形のコーン紙に伝え、コーン紙が空気を振動させて音を出す仕組み。

そうそう、スピーカーといえば、思い出すたびにやるせない気持ちになってしまうことがあります。愛知県立刈谷高等学校2年在学中のこと。大嶽利蔵という美術の先生がいらっしゃいました。そのご子息の大嶽(おおたけ)(きよし)君は私と同級生。彼もラジオを作っていました。ある日、「コーン紙の破れた12インチのスピーカーがあるが、君にやろうか」といってくれました。私にはそんな大きなスピーカーを買う余裕はないので、有り難く頂戴しました。

家へ持ち帰って早速分解。なるほどひどい破れ方でした。ボイス・コイルまでダメ。コーン紙だけは買ってきて、ボイス・コイルは自分で作ることにしました。ハトロン紙を23枚円筒形に貼り合わせ、その上にエナメル線を巻く。それをセメダインで固定して完成。このボイス・コイルをコーン紙に取り付けるのが難題。センター・ポールの磁石と、鉄芯の円形の穴との2mmほどの隙間をボイス・コイルが振動するとき、両極に当たらないように取り付けなければならなりません。

充分乾燥するのを待って、ラジオからの出力線を繋ぎます。鳴った! 腹の底に響く低温が見事。スピーカー再生に成功! ただし、このスピーカーの磁石はパーマネント(永久)ではありません。ラジオ本体の整流回路の電流を、センター・ポールに巻いたフィールド・コイルに通すことによって、その時だけ磁石になる方式。当時はまだ大きい永久磁石が廉価で生産できなかったのでしょう。

因みに、大嶽君は高校卒業後航空自衛隊に入隊。除隊後は日本航空のパイロットになりました。しかし、残念なことに幽明境を異にしています。19721128日、日本航空466便DC-8-62機が、モスクワのシェレメーチェヴォ国際空港を離陸直後に墜落したことをご記憶でしょうか。その飛行機の副操縦士が彼だったのです。墜落時のボイス・レコーダーに、機長と彼の最後の声。「ハイヨッ」「ヨッコラサッ!」。操縦桿を引いた時の声でした。当時のテレビが伝えていました。ひょうきん族の彼らしい声。が、思い出すたびに胸が痛みます。

466便は、東京国際空港(羽田空港)行きで、現地時間の午後751分(日本時間1129日午前151分)にシェレメーチエヴォ国際空港を離陸した直後、100m 程度上昇した時点で失速し、滑走路端から150m 地点の雪原に墜落。機体は衝撃で破壊され火に包まれたのこと。ソ連の事故調査委員会は、事故の原因を次のように発表しています。

同機が離陸の際、離陸安全速度 (V2) に到達以降、乗員が航空機を臨界仰角以上にいたらしめ、それにより速度および高度を喪失したものである。航空機が臨界仰角以上になったのは、次の状態のいずれかの結果としてである。

・飛行中誤ってスポイラを出し、それにより揚力係数の最大数値を低下させ、また、航空機の抗力を増大せしめたこと。

・エンジンの防氷装置のスイッチを入れなかったためにインレットが凍結していた可能性があり、これにより第2または第1エンジンの動作が異常となったが、この際、乗員による適切な対応がされないまま機首上げ操作がなされたこと。

これらを基に、離陸前の誘導路走行中に副操縦士が「うまく入らない」と言いながら弄っていたグラウンドスポイラー(の操作)レバーを戻し忘れ、着陸後に地上でのみ使用すべきグラウンドスポイラーが展開した状態で強引に離陸しようとしたため、過負荷により滑走中の加速不良と異常振動を招来し、加えて離陸後の不適切な機首上げ操作によって迎角過剰になり、着氷して出力低下していたエンジンへの空気流量が更に減じたか、翼前縁に固着していた氷塊が吸い込まれるかして、コンプレッサーストールを起こしたエンジンが異常燃焼からバックファイアを噴いて推力が著しく失われ、主翼の失速に至ったとするシーケンスが有力視されたが、断定には到っていない。

降着装置を上下する(ランディング)ギアレバーと、グラウンドスポイラーレバーを取り違えたという仮説が民間から立ち上がったが、DC-8 では人間工学上の配慮から両者が全く離れた場所に置かれており、この説は現実的ではないと否定された。但し、操縦士が自らの意志で規定外の操作を行った場合は、この限りではない。 

 合掌

2016.9.3 前住職・本田眞哉・記@》

 

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