法 話

(187)五十年前を振り返って(2)」 
 
 

 

 

   

 


大府市S・E氏提供

                 

五十年前を振り返って(2)





 

何度も脱線して恐縮。話を50年前の自作のポータブル・ラジオに戻しましょう。単1乾電池2本を真空管のヒーター(A)電源としてケースの中へ。問題は高圧(B)電源。一般的には67.5ボルトの積層乾電池を使います。「シルバーラジオ」も当然使っていたと思いますが、これがまた高価。しかもトランジスタと違って、真空管は電気の消費量が大きいので電池の消耗が激しい。とても手が出ません。

そこで思いついたのが自転車の発電ランプ。今はどんな自転車でも〝標準装備〟で最初から付いているようですが、当時はオプション。私の高校時代=1952(昭和27)年~=は自転車の盗難が頻発。私もご多分に漏れず自転車盜に狙われました。そして、新たに(といっても中古の)自転車を買ってもらえることになりましたが、わが家の家計では発電ランプを付けてもらうことはできませんでした。あとで、ねだりにねだって買ってもらった覚えです。

その発電機側には、正面ライト用に12ボルト、テール・ランプ用に6ボルトの端子が付いていました。いよいよ作戦開始。12ボルト端子と正面ライトへの配線の間に、ジャンク物(廃品)のヒーター・トランスの二次側低圧端子を直列に接続。自転車のペダルを踏んで発電機を回せば、ヒーター・トランスの一次側に6070ボルトの高圧電流が発生するはず。そして、その電流をセレン整流器で整流すれば直流の高圧電源が確保できる勘定。その高圧電流をポータブル・ラジオに流し込めばよい、ということです。

結線を終えて恐る恐る自転車のペダルを踏む。だんだん回転をあげていくと…。普通の自転車走行の速度まで行かないうちにラジオが鳴りだしました。見事成功! 早速我が町に繰り出してみました。そんなにスピードを出さなくても、結構大きな音でラジオ放送の音声が流れてきました。サイクリングで知多半島を一周した時なども、ハンドルに付けた3インチのスピーカーから、軽やかな音楽やニュースが流れ出て、すれ違う人が怪訝な顔…。

あれから2年、はたしてこの自作ラジオ、非常時の情報収集に役立ってくれるだろうか。風雨が強くなりすでに停電した夕方6時半ごろ、庫裡の土間に自転車のスタンドを立ててペダルを踏む。ラジオが機能を発揮しだしました。3インチのスピーカーから台風情報が聞こえてきました。最初に飛び込んできたニュースは、名古屋市中村区にあるアパート「中村荘」の倒壊。通勤途中で毎日見かけていた二階建ての木造アパート。

当時、わが家にはテレビも電話もありませんでした。農村振興のためとかで、「有線放送電話」なるものがありました。確かラジオ放送は流れず、交換手兼アナウンサーのお嬢さんが、地域の連絡広報事項を伝えたり、番号の呼び出しをしたりしていました。ベルはなく、一回線にパラレルにぶら下がっている十数軒の電話機のスピーカーで、かかってきた相手先の番号を呼び出します。「○○番、○○ばーん」。

このアナウンスを聞いて、自分の家の番号だったら受話器を取って通話。プロテクト回路もなければパスワードもない。同じ回線内なら、受話器を取れば会話は筒抜けです。逆に、同一回線内ならば、〝電話座談会〟ができるでしょう。IT時代の今からみれば考えられないシステムです。

長時間の停電で有線放送ステーションのバッテリーの容量が落ちたためか、台風情報を伝えるアナウンスが音量不足に。加えて、張り巡らしたアルミ線の接合部分が、強風により接触不良を起こしているためか、ガリガリとノイズが入って非常に聞き取りにくい状況。やはり、情報は〝自転車ラジオ〟に頼るしかない、ということでしょうか。

「ドドドドドー」と、家全体が唸り声をあげ出し、縁の下を吹き抜ける風の音が「ボー」とものすごい。家全体が持ち上げられそう。築200年の古い庫裡は、布基礎もなければボルトもない、柱も束も丸石の上に乗っかっているだけ。そのうちに床下の風圧で畳が浮き上がりだしました。昭和初期製の木製ガラス戸は、風圧のため内側へ23センチ撓って今にも折れそう。何かつっかい棒を、と探しても何もありません。そこでタンスの引き出しを空にして、廊下を隔てた敷居を支点にしてつっかい棒の代用。

本堂は如何に?と足を踏み入れると、ギーッギーッと立っていられないほどの揺れ。すでに南側の厚さ20センチほどの壁は破れたらしく、内部は暴風雨状態。掛け軸は破れ、厚さ10センチの畳が10メートルも吹き飛ばされています。北側のテラス窓は、ガラス戸4本が施錠状態のまま外側へ落ちて吹き抜け状態。手の施しようがないので庫裡へ帰ることに。あちこちから「ガチャン」「バリバリ」「ガラガラ」と物が壊れる音。

時計をみると9時少し前。また自転車をこいでニュースを聞く。台風は6時過ぎに紀伊半島の潮ノ岬付近に上陸したのち、北北東に進んでいるとのこと。地図上で、台風の速度をもとに縮尺を当てはめて進路を推測し現在地を計算。中心部の最接近は間近い、もう少しの辛抱だ、と自らを励ましました。しかし、期待とは裏腹に風雨はますます強くなっていきます。屋根瓦はガラガラと音を立てて飛び、建物はミシミシと揺れ、恐怖で身の震えが止まりません。

九時半ごろでした。一段と強い風に家がきしみ初め、羽目板か戸板か破れるような音…。瓦の飛ぶ音も急増。と同時に風向きが変わりました。今まで東の風だったのが、南東の風に急変。雨戸に吹き付ける風雨の音で分かりました。あっ、これがピークだ。そう、古老から聞いたことがありました。風向きが変わる時に一番強い風が吹く、と。大きな有線放送のノイズがプツッと切れました。

11時ごろ外に出てみたら、直径1メートル余、高さ30メートル、樹齢200年の銀杏の木が倒れていました。根元のトイレを公道にはね上げ、墓石をなぎ倒し、有線放送の電線も切断していました。とすると、9時半ごろ、風速のピーク、風向が変わった時に銀杏の木は倒れたのでしょう。そして有線放送のノイズが切れたのもその時でしょう。おそらく瞬間最大風速は4850メートルはあったと思われます。

東浦町の資料によれば、隣接半田市の亀崎測候所では、瞬間最大風速48メートルを記録しています。また、同資料には台風の進路と勢力の記録も。18時の上陸時は930ミリバール。以後北北東に進路をとり、20時には奈良・三重県境の高見峠あたりに達し、940ミリバール。そして、21時には鈴鹿峠あたりに進み、依然940ミリバールの勢力を保っていたとのこと。その30分後わが町に最接近したものと読みとれます。私が計算した位置と時間がピタリ一致。

とにかく猛烈な台風でした。死者は5,400人以上にのぼりました。わが東浦町でも死者25人、負傷者は200人余。住宅の全半壊・流失・浸水被害は200余戸に及びました。あれから50年を経た今日、台風の進路についてはテレビが絶え間なく報道しています。特に最近は、気象予報の精度も上がり、テレビは即時性を以て進路予想情報を提供して貰えます。ラジオで聞いたデータを地図上に落とし、物差しと分度器を使って、進路と到達時刻を予測した時代と比べると隔世の感。いずれにしても、充分な情報を収集して災害時の被害を最小限にとどめたいものです。

2016.10.3 前住職・本田眞哉・記@》

 

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