法 話

(189)五十年前を振り返って(4) 
 
 

 

 

   

 


大府市S・E氏提供

                 

五十年前を振り返って(4)



 

1964(昭和39)年の秋も深まり、豊作の水田では稲刈りが始まりました。境内の奥の畑にある柿の木も、今年は大豊作で枝もたわわに赤い実を付けております。その柿の木の向こうには大修復成って、甍の列も正しく本堂の屋根が夕陽に映えています。あと2ヶ月後に迫った、50年に一度の勝縁・親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)七百回(ななひゃくかい)御遠忌(ごえんき)法要(ほうよう)を待ち受けているかのように。

思い返せば、1961(昭和36)年1219日総代・世話人にお集まり願って、本堂修復の件について最初の相談をさせていただきました。幾たびかの地震や台風に耐えてきた本堂も、建立以来130有余年、寄る年波には勝てず、全体的に緩みがきておりました。何としても「起死回生」のカンフルが必要ということになり、ここに大修復を行うことになりました。

そして発願以来丸3年、ここに本堂修復工事の落慶を見、更に山門・水屋の修復も加え、はたまた参詣者用手洗いの新設も成就しました。この間、工事委員の任命・世話人交代・工事委員長負傷・同代理選任・服部総代の訃等々、紆余曲折の時の流れがありましたが、ご門徒各位の物心両面に亘るご支援により事業成就に至ることができました。

本年1月末のあの寒い日に着工して以来はや9ヶ月、その間、工事委員長以下委員各位、世話人、一般同行各位による勤労奉仕は何と延べ200有余人を記録しました。しかも、この勤労奉仕には皆さん快く応じていただき、「もっと手伝わせてください」とおっしゃる方も。こうした勤労奉仕のおかげで工事費を大きく節約することができました。

更に喜ばしいことは、この修復成った本堂において親鸞聖人七百回御遠忌法要・本堂修復落慶法要を勤修できることであります。「御遠忌」は50年に一度勤められる親鸞聖人の年回法要。50年に一度といえば一代に一度しか遇えない、いや一度も遇えない人もあるかもしれません。私も次の七百五十回御遠忌法要には遇えないかもしれません。生きていたとしても住職としては遇えないでしょう。

この勝縁に遇わせていただける有り難さをかみしめようではありませんか。いよいよ迫って参りました。みんなで有意義な御遠忌にしましょう。みんなこぞって参詣して、700年脈々と続いたみ法を聴聞し、人間の本当の生き方をもう一度顕かにしましょう。

                    

年改まって1965(昭和40)年。私にとって今年の正月ほどすがすがしい年の初めを迎えたことはありません。昨年は親鸞聖人の流れを汲む我々真宗門徒にとっての一大行事を終えたからです。即ち、本堂の大修復、山門・境内の整備を成し遂げ、厳かに内陣を荘厳して、盛大に親鸞聖人七百回御遠忌法要と本堂修復落慶法要を勤修することができたからです。

信は荘厳からと申しますが、整然と修復成り金箔輝く堂内で、赤々と燃える百匁ローソクの下でお勤めした法要の中より湧き出た、あの感激・感謝の気持ちは一生忘れられないでしょう。しかし、これも私一人のものではありません。この日のためにお骨折りくださいました檀徒総代、世話人、工事委員各位はもとより、檀信徒各位も全く同じ気持ちであったと思います。

思い返せば、1961(昭和36)年12月、本堂修復工事を発願以来、募財・工事・法要と物心両面に亘る役員諸氏並びに檀信徒各位のご支援は絶大なものでありました。ここに紙面を借りて改めて深甚の謝意を表する次第です。

法要はまず1964(昭和39)1211日午後の本堂修復落慶法要から始まりました。時々雲が出ましたが穏やかな天候でした。午後2時より約1時間の読経(どきょう)起立(きりゅう)散華(さんげ)の儀式で本堂修復落慶の法要を勤修法要終わって報告式。まず開式の辞。次に久米嘉和助修復委員長経過報告続いて同委員長より次の各位に感謝状の贈呈が行われました。

   (かめ)(つた)瓦工業所・神谷建築事務所・河合兵弌郎工事委員長・貝沼吉三郎工事委員長代理そして世話人澤田良市野村一市野村義三森井万吉杉浦正治野村仲衛伊藤年男猪塚昌雄諸氏

続いて、久米嘉和助修復委員長並びに野村美雄・野村泰助・服部寛の3総代に住職より感謝状が贈呈されました。

最後に住職が謝辞を述べ、報告式を閉式。報告式終了後、大谷登師の説教がありました。

2日目・12日も天気はよく、穏やかな日でした。午前9時よりと、午後1時よりと2座の法要が勤修されました。午後は音楽法要で一層の盛り上がりも。午前・午後と2回に亘り境瞬英師の説教がありました。お昼には緒川同行の各位がオトキにつきました。

3日目・13日、朝8時の打ち上げ花火を合図に法要第3日の幕が開けられました。午前9時より(じん)(じょう)の法要が、ショウ・ヒチリキの楽の音も高らかに10余名の参勤法中により営まれました。浅野義敬師の説教のあと、他所同行及び新田同行の方々がオトキにつき、役員は稚児行列の準備にてんやわんや。

緒川公民館で午前9時より化粧・衣装の準備をしていた稚児は、12時半には宿の野村酒造前の道路に勢揃い。一方、住職はじめ参勤法中は、法服七条の装束で野村泰助氏の仏間で厳かに読経の後、楽の音とともに稚児行列に加わり、参堂列の盛儀を開始。稚児260名、付き添いも含めると総勢600名に垂んとする行列は実にきらびやか。言葉に尽くせません。

空には雲ひとつなく快晴。師走とは思えない暖かさ。全く仏天の妙用というほかありません。庭儀は定刻2時に了願寺に到着・入堂し、盛儀はクライマックスに達しました。引き続き結願日中の法要が熱っぽい堂内で営まれ、念仏の声が堂内割れんばかりに響き渡り、3日間の法要はここに恙なく円成を告げたのであります。(本田眞哉住職 合掌)

 

      法要次第   1964(昭和39)年

   12月11日  14時    本堂修復落慶法要

      12日   9時    親鸞聖人七百回御遠忌法要  逮夜

           13時    親鸞聖人七百回御遠忌法要  日中

      13日   9時    親鸞聖人七百回御遠忌法要  晨朝

            正午    親鸞聖人七百回御遠忌法要  庭儀

           14時    親鸞聖人七百回御遠忌法要  結願日中

                  満座御礼


 合掌

2016.12.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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