法 話

(194)「お隣に入海貝塚」

  

 

 

   

 


大府市S・E氏提供



  「お隣に入海貝塚」

 

 

 

 

当山の所在する東浦町は、人口が5万人をわずかにオーバー。数年前、市制昇格をやり損ねた曰く付きのタウン。町は6つの字で構成されております。北から森岡・緒川・石浜・生路・藤江、そして緒川の西6㎞のところに新田地区。この6地区がちょうど「おにぎり」を形作るかのように、三角形に点在しています。当山はその中の一つの大字「緒川」に所属。

当地が歴史上に出てくるのは南北朝・武家政権時代。村々の成立は室町時代初頭、14C末には集落が形成されていたと思われます。特に小河(緒川)は早く14C中ごろ。15C初頭(応永年間)には全5ヶ村の名が見られます。全国的に見ても村の成立は早いほうのようです。成立が早い理由としては、次のようなことが考えられます。

  ①湾岸にあり、漁業や塩田等の海の生産に有利なだけでなく、船と馬の交通の接点にあり、船と馬の両者を利用した交通が盛んな地域であったこと

  ②字名に象徴されるように、この地域には衣ヶ浦に注ぐ小さな河川が沢山あり、この水の流れを直接利用したり、ため池を造ったりして水田を造ることが容易であったこと

緒川の南北に延びる洪積層の海岸段丘の東端に位置する「入海貝塚」、標高は13m。段丘下に広がっている集落や水田との比高は8m内外。この地に貝塚ができつつあった頃、つまり縄文時代人が生活していた頃は、現在宅地となっているところが浅瀬の海であったはず。発掘調査をすれば分かると思いますが、満潮の時には崖のすぐ下まで潮が上がってきていたことでしょう。

ところで、この入海貝塚で出土した土器にはどんな特徴があったのでしょう。この遺跡が発見されたのは大正年代でしたが、脚光を浴びるようになったのは、太平洋戦争後の昭和21年。東海地方の考古学研究に偉大な功績を残した吉田富夫先生がこの遺跡を調査するとともに、それまでの縄文土器研究の蓄積を踏まえて、翌年、縄文早期末の一型式として「入海式土器」という名称を提唱。

このように「何々式土器」という名前を付けるということは、その土器が、他の土器とは区別されるはっきりした特徴を備えており、他の遺跡から出土した土器を基準として位置づけることができることを意味しています。このような土器を標識土器と呼び、それを出土する遺跡を標識遺跡と呼びます。したがって、入海貝塚から出土する土器のうちのあるものを標識土器とし、当地方の縄文早期土器の前後関係を判定する物差しにすることができるということです。

その後、名古屋大学や南山大学による発掘調査が行われました。遺物は、攪乱されていなければ、深い位置にあるものほど古いことになるので、異なる型式の土器がいくつかの場所で、同じ順序で埋まっていることが見いだされれば、土器型式の時代的な後先の関係が確認され、標識土器の物差しとしての有効性が高まりましょう。とりわけ南山大学の調査で入海式土器と他の土器との関係を確認。それを受けて東浦町の遺跡「入海貝塚」は、昭和28年(1953)国の史跡に指定されました。

入海貝塚は、知多半島の東側に南北にのびる洪積層の段丘の東の端に位置する、今から6000年前の遺跡。標高は約13mで、東側に広がっている集落や水田との比高は約8m内外。この地に貝塚ができつつあった頃、つまり縄文時代人が生活していた頃、この水田面が遠浅の海となっていたはずです。発掘調査をしてみれば分かることですが、満潮の時には、崖のすぐ下まで潮が上がってきていたことでしょう。

ところで、「入海式土器」の特徴は何なのでしょう。縄文時代後半のこの地方の一群の土器は、貝殻条痕文系繊維土器と呼ばれます。土器の表面をアナダラ属の貝殻の背で引っ掻くことによって、数本の平行線の筋の文様、すなわち条痕が付けられていることと、粘土の中に繊維が混ぜられていることによって名付けられているとのこと。

合 掌

 

2017.5.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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